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2015.10.1 健康体操

 今、日々の健康を維持するために、ストレッチなどの健康体操が盛んである。私のようにかなりひどい腰痛持ちの場合、どんな体操をやっていいという訳ではない。やり方によって病状を悪化させるものもあるので限定される。そこで、いま実践している体操は、整形外科の理学療養士が指導した軽めでマメに行うというプログラムである。毎日机に向かうので、姿勢が前のめりになり、腰に負担がかかる。その上慢性の運動不足にもなることに対処したものだ。
 足が軽い時にはよくウォーキングをして、体調管理ができたが、足腰が弱ってからは歩くのが辛くなり、休みがちである。医者通いで歩くのが主となってしまったのは、なんとも皮肉な有様だ。
 運動をしないと、一日のカロリー消費が減り、持病の糖尿病には好ましいことではない。そこで無理して歩けば腰に負担が掛かり、腰痛が悪化する。皮肉なジレンマに陥ってしまう。
 そこで前述の理学プログラムの実践ということになる。これは簡単な体操(ストレッチ)の組み合わせで、誰でもこなせる。ただ回数をこなさないと効果が出ない。
 一応どんな体操か紹介すると、第一ストレッチは、腰に手を当てて後ろに深く反り返る運動を8回行う。第2ストレッチは、腰回しで右回り左回り各5回行う。第3ストレッチは両耳につくように両腕を高く上げる運動を5回行う。第4ストレッチは椅子に座って、足を持ち上げ5秒ほど静止し、元に戻す。これを左右5回行う。最後の第5ストレッチは体をテーブルや柱などで支えて、足をブルブルと振る運動。これは数えにくいので、左右適当に行う。
 とまあこんな塩梅でストレッチを行うのであるが、マメに行うというところがミソで、一日トータル30分が目安とされているので、1回の体操が1分間だとすると30回やらなければならない。起きている間にすることになるので、大体30分毎に体操する計算になる。タイマーを横に置いて試行して見たが、結構頻繁で、落ち着いて仕事ができないくらいだ。
 いくら体のためとは言い、言うは易し、行うは難しの喩えではないが、中々マメに勤め上げるのは難しいことだ。今後どう続けるか悩ましい問題を、また抱え込んでしまった。

2015.10.5 クシャミと季節の変わり目
 「秋来ぬと合点させるくさめかな(蕪村)」の句にあるように、秋が深まり長袖の季節に移り始めると、私は必ず鼻炎が起きる。理由は外気との寒暖の差が原因で発症する寒暖差アレルギー性鼻炎ということで、この調子でいくと春先まで続くので、医者に相談したところ噴霧式の鼻炎薬を出してくれた。早速試したところよく効く。これで今年は大量に使ってきたティッシュから解放されそうな気がする。私の冬嫌いはこんなアレルギーのせいなのかもしれない。意外なところでアレルギー体質が見つかるものである。
 季節は10月に入り秋の色が濃く出始めた。今回は暦と色との関係について面白い記述を見つけたので紹介する「昔中国から伝来した五行説というのがある。これは木・火・土・金。水の五種によって自然界や人事のすべてを説明しようとする説である。この説では、木には青、火には赤(朱)、土には黄、金には白、水には黒(玄)が割り当てられる。また、方角では東は木である。従って東の色は青となる。同様に南は火で赤、西は金で白、北は水で黒。中央が土で黄となる。ここから東は青竜、南は朱雀、西は白虎、北は玄武の四神が生まれた」という(二十四気物語:倉嶋 厚)。
 これに関連して四季にも色を付け、青春、朱夏、白秋、玄冬という表現が生まれた。これらの言葉は五行説に発していることが分かる。
 今は満月も過ぎたが、中秋の名月は特にスーパーフルムーンなどと言われ、特別大きく白く輝いていたのをニュースで見た。白秋の深まりは日に日に強まり、周囲の色彩は薄まり、白っぽくなる。鮮やかな緑が黄色や赤に変色し、そこに白い霧がかかると幽玄の世界の広がりとなり、駆け足で冬が訪れる。短い秋を楽しむとしよう。

2015.10.8 果物の歌
 10月5日付「時の風物詩」で上げた項目の中に高村光太郎の「智恵子抄」の「レモン哀歌」で
「そんなにもあなたはレモンを待っていた・・・私の手からとつた一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」という詩である。
 このように果物を題材にした詩(歌)が他にもないか探してみた。いくつも見つかった。果物ごとにいくつか上げてみる(敬称略)。
『りんごへの固執』谷川俊太郎
「 紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。きれいということはできない、美ではないりんごだ。分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから」
『ぶどう』与田準一
 「ぶどうのように ひとつひとつが まるく。ぶどうのように みんなが ひとつのふさになって。
 ぶどうのように ゆったりと においも あまく。ぶどうのように よろこびをひとから ひとへ」
『栗』金子みすゞ
「栗 、栗、いつ落ちる。ひとつほしいが、もぎたいが、落ちないうちにもがれたら、栗の親木は怒るだろ。 栗、栗、落ちとくれ。おとなしいよ、待ってるよ」
『黄色いサクランボ』星野哲郎
 「若い娘は(ウフン) お色気ありそで(ウフン) なさそで(ウフン) ありそで(ウフン)
 ほらほら 黄色いさくらんぼ つまんでごらんよ ワン しゃぶってごらんよ ツー 甘くてしぶいよ スリー
 ワン ツー スリー ウーン 黄色いさくらんぼ」
  といった具合にたった一つの題材で詩人は空想を膨らませ、人の心と結び付けてしまう。まるで言葉の錬金術師のように。
 短い言葉の中に情感を込めるというのは、とても難しい業だ。 俳句は巧拙が見分けにくいから簡単に詠うことができるが、詩はそうはいかない。
 詩を書くという時がくるのか、そうなればうれしいのだが。

2015.10.12 袋(mono)
 世の中で溢れるほどに使われているのが袋類である。今回は身の回りにある袋のついて考察する。
 日常最も手にする機会が多いのが、ポリエチレン(ポリ系)のレジ袋だ。コンビニ、スーパー、弁当屋などで買うものは大概レジ袋に入れてくれる(エコからマイバックの主婦も増えている)。一方減ってはいるが紙袋もあり、贈答用の菓子などは紙袋に入れて渡す方が高級感を与える。紙は素材としては弱いが、形や色、質感などデザイン面で利点があるのかもしれない。
 資源ごみなども袋に入れて出される。数え上げると袋の用途は非常に多岐にわたる。
 ポリ袋について調べてみると、ポリ袋には2種類あり、スーパーなどで目にするロゴ入りの薄いポリ袋は、白くて不透明な高濃度ポリエチレンで作り、魚や肉などを入れる透明な袋は低濃度ポリエチレンで作るのだそうだ。
 なお、ビニール袋と呼ぶのは誤用だそうで、今はすべてポリ系なのだという。
 素材についてはその位にして、袋は大きさや形でも用途が違ってくる。私の場合薄くて、透明で、軽いセロファン状の、はがきサイズのポリ袋を写真を送るときに使う。傷や指紋が付かないので良い。さらに小さい袋も使う。チャック付きの錠剤入れで、外で薬を飲むときに用いる。
 本のカバーも袋扱いするなら、文庫本などは持ち歩くときにポリエステルの布状のカバーは、使いまわしもできて便利である。
 100均ショップに行けば、いろいろな袋を売っている。使い捨てのポリ袋以外では、ポリエステルやアクリルの小物入れが多く、電気小物や文具など、ここで調達する袋物は多くある。
 袋物と表現すると、何かバッグなどを想像してしまう。どこに境界を設ければいいか見当がつかないが、どちらかと言うと消耗品扱いされるものをここでは袋ということで、思いつくままに取り上げてみた。

2015.10.15 アクション(行為又は動作)
 今回は人の行動の本質に関わることについて考えてみた。
 毎日当たり前のように行われる行動、例えば掛ける、締める、止める(留める)、貼るなどの動作である。
 一日の始まり、人はどんな行動から始めるのだろうか。外出すると仮定しよう。まずシャツを着、ボタンを留める。ズボンをはき、ジッパーを締める。玄関で靴に足を通し、紐を絞る。または脇のジッパーを締める。私もかつては靴は紐かスリップオンだったが、今はスリップオンかジッパー式だ。単に面倒くさいからである。このように動作することは、生活していく上で手抜きできないことであって、人は毎日何回留めたり、締めたり、緩めたりとした行為を繰り返すことだろうか。
 これはひとえに身に付けるモノを着けたり外したりするために行うアクションで、人以外の動物には無用なことだ。
 人の世界ではひとつのモノが多くの関連した行為を生み出す。前にも記したが、単独で完結する行動は少ない。ボタンを掛けたり、靴の紐を締めるといった行為が、他の局面でも見られ、その連続が人間の生活と言ってもいいだろう。
 他の例を上げて見るとしよう。
 「薬を塗る、手拭いで拭く、糸を通す、箸でつまむ、ガラスを磨く」など上げればきりがない。
 これらの行為はすべてモノや道具に関わっていることだ。人間が道具を使うようになってから、段々と進化してきた能力なのだろう。日本人の手先が器用なことは世界も認めるところである。よく箸の文化が日本人の職人芸を育てるに大きく貢献したというが、指先を巧みに使うことを幼い時から学ぶことが基本にあっての器用さなのだと思う。
 私などのように年齢を重ね、80歳が見えるようになると、身体の方は中々思い通りに動いてくれないが、今もキーボードを叩いているが、指先で学習したものはあまり衰えないものである。アクションし続けることが脳の活性化にもつながり、精神年齢を若く保ってくれることは、私の場合には当てはまるようだ。

2015.10.19 加減の取り方
 常に全力疾走するなどと言うことは出来るものではない。マラソン選手がペース配分を大事にするように、力の入れ加減は経験を積まないと身につかない。
 身をもって感じ取る力加減であるが、腰の治療を受けているのだが、理学療法士は絶妙の力加減で施術する。強すぎず、弱すぎず指先から熱線が出るように感じる。
 力を入れ過ぎるのは逆効果を招くことになる。かくして物事には力加減が必要だとういうことが分かる。
 私が苦労しているのは、筆の力加減で、毛筆で手紙を書くとき毎回同じように活字のようには書けない。特に縦線は難しい。少し長めであるため真っ直ぐ書いたり、太さを一定にするのがうまくいかないうえに、非常に感情の動きに敏感で乱れが直ぐに形に出るので、誤魔化しがきかない。
 私は水彩画は描かないが、同じように微妙な水加減や色の濃淡の出し方に力加減が大切な役割を果たしていることだと思う。名人の作となるとバランスが非常に良くて、ひとつひとつはバラバラのようでいて、全体で見ると実にまとまっているから不思議だ。そこには幾何学的美のようなものさえ感じる。
 私がパソコンで描く絵は、元絵を下敷きにして、なぞって書くので、筆で描くような、太さの変化や濃淡が出し難い。これは描画ソフトやデジタイザーという入力機器(ペンで描く機器)に頼るためで、力加減というより、うまくなぞるという感じで作業する。パソコン上で表現力のある絵を描くようになるためには、力加減を表現できる技術が普及する時が来るのを待たねばならない。それもそう遠い話ではないと思うが。
 加減の取り方には他にも色々ある。少し例を上げると「医者の匙加減、味付けの塩加減、自分より弱いものに対する手加減、料理の火加減・水加減、風呂の湯加減」など色々な局面で見ることができる。今回はテーマがテーマだけにいい加減なまとまりになってしまった。

2015.10.23 セルフコントロール(自制)
 自分自身を制御するのは難しいことだ。計画を立て「ああしよう。こうしよう」とは思うのだが、うまく実現できることはそう多くはない。
 それだけ雑念が多く、厳しく律して行動できず、例えば次のような誘惑には逆らえない。特に食い意地というやつで、甘いものには目がない方なので、目の前にするとつい手が出てしまう。どうも糖尿病持ちは、その原因として、甘いものが好きで自制できないところにある。体調が悪い時は我慢できるが、それは意志とは関係なく、また体調が戻ればまた蒸し返しで、コントロールが効かなくなる。
 セルフコントロールとは自制するという意味である。自分自身に節度を守らせようと務めることで、禁欲主義とはかけ離れた軽い抑制である。そんな簡単なことができないかと言う声が聞こえそうだが、自分の嗜好や行動にタガをはめるのは、それほど容易なことではない。
 人によって思うようにコントロールできないことの対象が異なるのは当然である。
 私は酒やタバコなどは嗜まないから自制の対象にはなりえない。ところが、大酒飲みやヘビースモーカーにいきなり摂取量を半分に減らせと言っても無理な話で、これは自制の範囲を超えているからだ。もし実行に移せても三日坊主といったところがオチである。
 修行僧ではないのだから、できるところから徐々にセーブするのがいいのではなかろうか。
 社会生活を続ける上で求められるセルフコントロールとは、法を守るということで、これは最低限のルールやマナーを守りましょうということで、誰でも簡単に果たせるはずのものである。たまに道を踏み外して新聞ネタになる人も後を絶たないところを見ると、自制するという行為は、簡単なようで強い意志の力が伴わないと、直ぐに崩れるものであるのだと、胆に命じておく事としよう。

2015.10.27 念を入れるということ
 念という言葉は色々な使われ方があるが。今回強調している念とは、気持ちを集中させることに専念する「念」のことである。
 誰にでも日頃いろいろな局面で何かを決めなければならい時がある。どうしようかと答えを模索して、気持ちを集中させる。このことを念を入れるという。
 念ずるということは、期待が込められた気持ちで、先のことは分からないだけに、年齢には関係なく抱く精神の働きと言えよう。
 「念」に関する諺は多く、必ずしも上に示した意味合いのものばかりではない。少し例を上げるなら「念ずれば通ずる」「念には念を入れよ」「信念は岩をも通す」「一念天に通ず」「馬の耳に念仏」など多くある。最後に上げた諺だけが異質であるが、その他は「祈念」とか「念願」といった言葉に通じるものだ。「記念」や「念書」などの言葉は記憶に残したり、忘れてはならない約束のことなので、未来のために残すという意味で使われている。
 念のために、 小学4年生の学習漢字では次のように解説している。
1 いちずに思いをこめる。「念願・念力/一念・観念・祈念・思念・専念・想念」
2 いつまでも心にとどめる。「念書/記念」
3 思い詰めた考えや気持ち。思い。「怨念(おんねん)・疑念・雑念・残念・執念・情念・信念・断念・無念・妄念・理念」
4 注意。「丹念・入念」
5 含み声で唱える。「念経・念仏」
6 きわめて短い時間。「念念/一念」
 このように小学4年生には少し難しいのではないかと、いささか驚く語彙だ。
 今回この言葉をテーマにしたのは、このコラムを書き始めてから200話を超えたため、発想段階から入念にテーマを選択して執筆に専念しないとコラムの考え方である「どうでもいいような日々の話題であること」という筋道から外れてしまうからである。そこで初心に戻り、自戒も含め「念」について見直してみた訳である。

2015.10.31 自分の殻
 人は誰でも自分の殻というものを持っている。卵の殻のようなものであるが、目には見えない殻である。卵の殻のように一度破れたら元に戻らないものではなく、出入り自由な殻である。一種のシェルターのようなものであると考えればよい。子どもが親に叱られると、黙りこくってしまうことがある。自分の殻に閉じこもってしまった状態だ。自分の殻とは、特に自分に対して行われる他者からの精神的脅威から逃れるバリアと言えるだろう。先に誰でも自分の殻は持っていると書いたが、異常な形で殻が形成される場合もある。例えば、「PTSD(心的外傷後ストレス障害)は地震、洪水、火事のような災害、または事故、戦争といった人災、あるいはいじめ、テロ、監禁、虐待、パワハラ、モラハラ、ドメスティックバイオレンス、強姦、体罰などの犯罪、つまり、生命が脅かされたり、人としての尊厳が損なわれるような多様な原因によって生じうる。(wikipedia)」
一旦このような障害を負ってしまうと、元に戻ることはない。表面的には普通な状態を維持できるが、パニックに陥ると、いとも簡単に深い殻の中に舞い戻ってしまう。心の傷は身体の傷より治り難いということである。
 まったく自分の殻を持たない人などいないと思うが、無警戒で、ある意味無神経かつお人好しな人はいるものだ。疑うことを知らない。もしくは騙されやすい。こういう人は自分の殻が薄いのかもしれない。私から見れば羨ましい人である。
 そんな人でも痛い目に合うと「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く 」( 熱い吸い物を飲んでやけどをしたのにこりて、冷たいなますも吹いてさますという意。前の失敗にこりて必要以上の用心をすることのたとえ)のように用心深くなり、殻が強くなるものだ。
 よく「自分の殻を破って」などという表現をする人がいるが、自分の殻はことほど左様に、簡単に破れるものではないし、むしろ自分の殻の状態を認識して、自在に出入りすることを習得すべきであろう。