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2015.11.3 文化の日に因んで
 灯火親しむ頃となり、物思いに耽る機会も多くなった。本日は文化の日。そこで日本の文化について少々考えてみることにした。
 文化に関するキーワードは宗教、 言語、慣わし、伝統などを上げることができる。これらはそれぞれの国や地域で異なり、それが独自の文化圏を構成する。
 身近なところで日本の文化は一体どんな特徴を持っているんだろうか。
 先ず宗教から始めよう。日本人が持っている特別な宗教観は、他国と比べて余りに違いが際立つ。
 日本のように神仏混交のような世界が成り立つこと自体が、欧米のキリスト教国や中東・東南アジアのイスラム圏の国では信じられないことだろう。現在でも中東では宗教対立で紛争が起きている。同じ国で殺し合いに発展する宗派内の争いなど、日本人には理解を超えている。これが文化の違いである。
 これだけの違いは、日本人の宗教に対する極めてあいまいな受け取り方に起因する。イスラム経の人が行うラマダンや、毎日の礼拝などという難しい戒律は日本の八百万の神にはない。信仰の自由とは、都合のいいように信じなさいということで、主に冠婚葬祭や法事の際に必要になるだけで大半の人は普段は無関心と言っても言い過ぎではない。大晦日にお寺で鐘をつき、翌日には神社で初詣をする。そこに何の違和感も持たない。同じ人が結婚式は教会や神社で、葬儀は仏式でと言うのは当然のごとく受け入れられている。対象となる神仏はどうでもいいことなのだ。もともと日本には八百万の神々が住んでおり、鰯の頭も信心からというくらい、信仰の対象には事欠かない。
 「日本では、500年代半ばに仏教が流入する以前から、土着の宗教として根ざしていた神々への信仰が仏教の勃興と共に同一化される神仏混交(神仏習合)というややこしことも、柔軟性を持って受け入れてきた」(中村義裕)と指摘されるように、伝来のものと土着のものがうまく融け合って、共存していかせることに日本人は長けているのかもしれない。 次回以降で言語以下に示したキーワードで日本の文化を解明していきたい。

2015.11.7 日本の文化(言語と会話)
 外国人にとって、日本語は難しいという話をよく聞く。どうやら外国人にとって日本語の複雑さと曖昧さが理解し難いからだろう。例を上げると日常の挨拶一つとっても「おはよう」「こんにちは」「さようなら」を英語に置き換えると「good morning」「good afternoon」「good bye」となり、こちらのほうが意味が明確である。
 前回の宗教観のところでも触れたが、ここにもあいまいさが付いて回る。
 日本の偉大な哲学者中村元(なかむらはじめ)氏はその著書「日本人の思惟方法」において「一般的に言いうることであるが、日本語の表現形式は、論理的正確性を期するというよりは、むしろ感情的・情緒的である傾きがある。日本語は事物のありかたの種々なる様態を厳密に正確に表示しようとしないで、ただ漠然と、ほのかな感情をこめて表現する場合が多い」と述べている。
 この言葉を裏付けるように、確かに英語(多分欧米を含む文化圏)では、言葉の表現が論理的で明確である。従って、日常生活の中で不明確で論理性に欠ける会話が飛び交う日本語の理解に苦しむことになるのだろう
 会話に関しては、同じ日本人のでありながら、お国言葉となるとさっぱり通じないものがある。沖縄の古い言葉は私からすれば、英語より理解し難い。これは極端な例であるが、意味は通じるが、表現の仕方や、イントネーションの違いが、多くのお国訛りとして現存している。関西弁と言っても、京言葉と大阪弁とでは結構違う。例を上げると「言わはる(京)」→「言いはる(大)」、「そや(京)」→「せや(大)」といった具合に。東京の言葉は標準語にはなっているが、「ひ」と「し」が混同されているという地方色が見られる。
 こうした多様な言い回しの違いは、日本独自の文化が創り出した副産物なのかもしれない。

2015.11.11 日本の文化(風習)
 古くから日本では風習(慣行)という伝統が、文化を生み出した大きな要因となっている。
 農耕民族とも言えるわが国ではずっと昔から天の恵みに大きく依存してきた。そのため暦が重んじられ、月の運行に従って定められた陰暦によって祭祀が執り行われた。こうした祭りごとが伝統文化へとつながっている。これまでも季節の移り変わりを示す二十四節気については多く取り上げてきたが、改めて伝統文化との結びつきについて検証する。
 伝統文化とは「 これまでの長い歴史の中で形成された中でも特に普遍的に重んじられてきたもので、地域に根ざし 地域社会の生活様式と共に伝承されてきたものを言う。それは祭事や神事、伝統芸能や風習・行事として地域文化として伝えられてきたものや、かつては日常 生活の道具として使用されたものが、使用価値から美術的価値や工芸品的価値に形を変えて、その技法は匠の技として継承・伝承されてきたものによって育まれてきたもの」と事典では定義づけている。
 例を上げて見よう。11月8日の"時の歳時記"で紹介した鶴岡八幡宮の末社、丸山稲荷社の火焚祭では「鎌倉神楽が奉納され、神楽の庭には五色の切り紙で飾られた山飾りが設けられ、湯立てを中心に、初能、御祓、御幣招き、湯上、かき湯、笹舞、弓祓、剣舞、毛止幾などの神楽が素朴な舞と笛、太鼓の音色を伴って奉仕される」と紹介したように、人と神とのつながりを祭祀として執り行う神事は、日本の一大年中行事であり、あらゆる地域で形こそ違え、天の恵みに感謝する習わしとして長く伝承され、今も守られている。
 一方で、新しい国を作ろうとするために、古い文化を否定するという形をとる国も多く存在する。それも有形・無形の文化を根こそぎ抹殺しようとする「焚書坑儒」(中国秦の時代)に似た暴挙が行われている。それにより何千年も続いた文化遺産が破壊されている。取り返しのつかない過ちを犯すのも人の世である。
 せめて日本では、こういう形で長い時間をかけて築き上げられた文化を失わぬよう、しっかり守ってほしいものだ。
 「温故知新」という諺がある。もう一度自分の周囲の風習を見直すとしよう。

2015.11.15 今年は暖冬?
 天気予報が面白い。最近は気象予報士が独自のやり方で発表するので、当たり外れは別として、楽しめる。衛星からのビジュアルな映像も一役買っているのも見逃せない。
 それはさておき、今年はエルニーニョの年に当たり、予報士の解説によれば、史上2番目の規模の異常気象だという。その話に関連して今年が何故暖冬になるのか探ってみた。
 普通の冬は東高西低といって、東(大陸側)の高気圧が寒気を伴って日本に押し出してくる。逆に西(太平洋側)の低気圧は太平洋側に遠のいていくという気圧配置となる。ところが、5年に1度くらいエルニーニョの影響で世界的な異常気象となる。
 海水温度が全体的に高く、地球温暖化がさらに進んでいる。このエルニーニョ(昨年はラニーニャ)現象は日本の天候にも様々な影響を及ぼしている。気象庁の統計によれば、エルニーニョ現象が発生している時の、東日本の冬(12月~2月:1958~2012)の天候の特徴は、次のようになっている。
「平均気温:低い22% 並 15% 高い 62%」と暖冬であることが分かる」
「降水量:少ない31% 並 15% 多い 4%」と天気が悪いが低気圧の関係で暖かくなるだろう
「日照時間:少ない 54% 並 38% 多い 8%」と日本で最も少なく、ぐずついた天気が続くようだ
 平年の平均の天候を表すグラフが見当たらず、比較できないのが残念だが、
 エルニーニョ現象が起こると、日本では日照不足の冷夏や暖冬となり、「夏は暑くて冬は寒い」という四季の特徴が弱くなると言われている。 
 実際にもう11月中旬であるが、暖房器具はあまり使っていない。この辺からも今年の冬は暖かくなるだろうと推測される。

2015.11.18 子どもの遊び(ゲーム1)
 人は大人から子どもまで遊びが好きだ。遊びというのは人生における潤滑油の役割を果たす。遊びは幼いころに経験するコマ回しや、お手玉のような素朴なものから始まり、大人になると競輪・競馬・パチンコと射幸性の強いものへと移っていく傾向が強い。ここで取り上げた大人の遊びは、ギャンブルの部類に入るので、子どもの遊びと同一線上にあると考えるのは、間違っているかもしれないのだが、遊びは歳を重ねるごとに複数で共有するものへと変質すると考える。言い換えれば社会化する傾向が高くなるということは間違いないようだ。
 現在、私が娯楽としているのは、麻雀と囲碁であるが、これなどは頭脳を使うゲームで、対戦型とでも表現するか腕を競う相手が必要なゲームである。私の場合、相手はコンピュータである。前にも述べたが、十分相手にとって不足ない。ゲームのコンピュータ化(AI化:人工知能化)は著しく進歩してきており、こどものゲーム世界でも、急速にその波は広まっている。任天堂の「ポケモン」を例にとると、今では子どもの世界の遊びは全く様変わりしていて、赤外線によるワイヤレス通信で新しい遊びを提供する物も発売されている。小学生から高校生まで4、5人集まっているのを見ると必ずと言っていいほど対戦型ゲームに没頭している。
 実に我々戦中世代とは比べ物にならない変貌を遂げている。遊びがアナログからデジタルへと変わってしまった。
 いずれにせよ、勉強や仕事だけでは息が詰まってしまう。息抜きにこうしたゲームは欠かせないものであることは誰もが認めることだろう。やがて年末となり、トイザラスのような遊びの道具専門のショッピングセンターが、いつものように大繁盛することになるだろう。
 子どもの頃慣れ親しんだ遊びは、手と指先を使うものが多く、この技術は技能を磨き、トランプやかるた、双六などは知能を磨くというように成長を促し、情操を高める働きがあると考える。「遊んでばかりいないで、勉強しなさい」もほどほどが良い。

2015.11.22 大人の遊び(ゲーム2)
 大人の遊びといっても色ごとの話を期待されては困る。あくまでも子どもの遊びの発展線上にあるものを取り上げてみるつもりだ。
 大衆的遊びの筆頭はパチンコである。これは機械が相手で一人で遊べる。景品目当てではなく、金目当てであるから、競馬、競輪、競艇と同類だろう。カジノ構想が上がっているが、これも賭け事のデパートといったところで、射幸性(ギャンブル性)を売りにする公営ギャンブル場を作ろうということなのだろう。
 随分古い話になるが、かつてパチンコは手動式で、いかに玉を台に流し込むか技能を競う面白さがあった。景品も小さな店が開けるぐらいたくさん置いてあった。遊んでうまくいけば袋一杯の景品を抱えて店を出るという勝利感も味わえた。それが自動化され、換金目当てになってからは、私は全く興味が失せ、足を向けなくなった。アナログからデジタルへと、この世界も素朴な遊びの要素は失われた。
 ギャンブル依存性に陥る人も多いという。こうなると遊びとは言えず、息抜きのはずが、逆に心を蝕んでしまうことになる。
 健全な遊びとしては、子どもから大人まで幅広く楽しめるのが、囲碁・将棋などのゲームで、「待った、待った」と繰り返すヘボ碁、馬鹿言いながら何番も繰り返す縁台将棋など大衆娯楽は、見ていても楽しい遊びだ。
 外国では広く行われているチェスは、触ったこともないが、外国映画などでチェスを指すシーンをよく見かける。どちらかというと将棋の外国版といったところなのだろう。
 知的でグループ向けのゲームにロールプレイングゲームというのもある。これは「ゲームの参加者が各自に割り当てられたキャラクターを操作し一般にはお互いに協力しあい、架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種である。今日ではコンピュータRPGが人気である」(wikipedia)というものだ。これは複数の人間で、いろいろと知恵を絞って戦略を展開させるので、企業などでもOJT(職場内訓練)として採りいれているところも多いという。
 どんなゲームをするとしても、ゲームは心から楽しめるものであってほしいものだ。

2015.11.26 ウォシュレット考
 日本のウォッシュレットは世界に冠たる名を挙げている。大挙して押し寄せる中国観光客の瀑買いのリストの一つに上がっているくらいだ。このウォッシュレットの歴史はそれほど古くはない。
 最初に売り出したのがTOTOで、1980年でウォシュレットという名で発売した。1983年に改良されビデなどの機能が追加され、その翌年には商標登録され便座の代表名となるほどのヒット商品となった。追随した他社では「温水洗浄便座」が一般名で、それぞれが固有の名前で売り出しているが、ウォシュレットの名前を凌駕するものは出ていない。
 似たような話に電気炊飯器があるが、これも1955年に東芝が「自動式電気釜」という名で商品化したところから一般的には電気釜が通称になっている。
 さて、話を便座に戻すが、少しびろうな話で気が引けるが、今どきはサプリメントのCMで「これを飲んだら翌朝はどっさり、すっきり」というセリフも横行しているので、遠慮なく話を進める。
 ウォシュレットで最初に感激したのは、お尻の洗浄が実に快感で、これはトイレの改革だと思った。おかげで長い間苦しめられた切れ痔からも解放された。ビデは使わないが、女性のデリケートゾーンをクリーンにするのに欠かせない機能のようだ。公衆トイレ(ショッピングセンターなどの)でも最近は高機能の便座が設置されているが、潔癖な人は誰が座ったか分からない便器に座るのができないで、中腰で事を済ます人もいるという。こうした時に洗浄機能は使わないのだろうか。他人事だがもったいないと思う。
 我が家でも25年ほど前からウォシュレットを使い始め、ごく最近古くなって壊れてしまい、三代目となる便座に付け替えた。ウォシュレットは値段が高いので、セールに出ていた他社の「温水洗浄便座」を購入した。できるだけ安く上げようと、女房がひとりで設置した。工具などもなくひどく手間がかかってしまい「次は設置してくれるセットにすると」ボヤいていた。大体この種の仕事は男の仕事なのだが、腰を痛めてから、中腰で重いものを取り付ける作業は全くできなくなってしまった。水道工事や冷暖房機やレンジフードなどのフィルター交換などの仕事は女房任せになっており、実は少し肩身の狭い思いもしている。便座交換の一幕というお話。

2015.11.30 師走(暦編)
 明日は12月に入る。旧暦では師走、最も忙しい年の瀬である。
2013年は「師走」と題して師走の由来について、そして昨年は「師走狂想曲」と題して、自分の年の瀬の過ごし方を中心に記したと覚えている。
 今回は少し趣向を変えて、暦 や年中行事について紹介してみたい。
「時の風物詩」で毎日の年中行事を紹介しているので、一部重なるかもしれないが、ご容赦願いたい。
 気候の面から12月を見ると、7日には二十四節気の一つ大雪(だいせつ)に当たり、北風が吹いて降雪などもある。肌を刺すような冷たい風、木枯らしが吹き始め、寒風によって落ち葉が舞い積もるなど、冬景色が本格的に広がる。
 今年の冬至は12月22日13時43分になるそうだ。冬至も二十四節気の一つで、太陽の位置がもっとも南に達して、日本を含む北半球正午の太陽位置がもっとも低く、日照時間が一年中でもっとも短い日である。そうは言ってもこの時期が一番寒いわけではなく、本格的寒さは2か月後翌年2月あたりにずれ込む。冬至の日には柚子を入れて入浴するという風習があるが、江戸時代に始まったと言われている。「ユズ湯に入れば風邪を引かない」という伝承がある。
 暦は二十四節気をさらに初候・二候・三候に三分した七十二候がある。今回は七十二候の内12月に絞って紹介する。
 それによると、12月は季節は仲冬である。「閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)」は、二十四節気の大雪の初候にあたり12月7日~12月11日ごろに相当する。「天地の気が塞がって冬となる」などといった意味。続いて「熊蟄穴(くまあなにこもる)」は二十四節気の大雪の次候にあたり、12月12日~12月16日ごろに相当する。「熊が冬眠のために穴に隠れる」などといった意味。最後が「鱖魚群(さけのうおむらがる)」二十四節気の大雪の末候にあたり、12月17日~12月21日ごろに相当する。「鮭が群がり川を上る」などといった意味。
 こうして和暦を調べると、それぞれが風物詩のように味わい深い表現で、とても楽しめる。(行事編に続く)