2015.12.3 師走(行事編)
12月は行事も詰まってくる。「事始め」という行事は、正月行事の準備を始める日で、12月8日をいう。花柳界などでは12月13日を正月事始めとして挨拶回りが行われる。
「煤払い(すすはらい)」は12月13日で、一年間の煤を払って家中を清める慣わしである。
「歳暮」は年末という意味であるが、年末に行われる贈答のことをいう。伝統的歳暮の品というのは、魚や餅といった食品で、新しい年を迎える時の「魂祭り(たままつり)」に関わっていると伝えられている。歳暮の時期は12月末であるが、近年はデパートなどから配送されることが多く、11月下旬には歳暮商戦が始まり、12月初めから届けるようになっている。
12月23日は「天皇誕生日」で国民の祝日である。翌24日はクリスマスイブとなり、サンタクロースが良い子の家を訪れ、贈り物を届けてくれる。この夜だけは、子どもたちは胸を躍らさせて寝床に入る。殆どの公立学校は冬休みに入る。
クリスマスが終わると26日頃から「餅搗き(もちつき)」が始まる。正月用の餅を搗くわけだが、29日はクニチ餅といい、31日は一夜餅といって縁起をかついで、餅つきはしないのが慣わしだ。
12月末には「歳の市」といって、商店街の大通りや辻に市が立つ。正月飾りや注連縄(しめなわ)神仏具などをはじめ日用品、衣類、食料などが賑やかな呼び込みとともに売られ、景気を盛り上げる。私も世田谷のボロ市が好きで、都合がつけば出かける。今年も15日~16日に開催される。年末のクライマックスが過ぎれば、新年はもうほんの目の前だ。
2015.12.7 外出時防寒対策
暖冬とは言えやはり寒い。軽い上着だけでは寒さしのぎにならなくなった。
ではどうすればこれから募る寒さに対抗できるのだろうか。
先ず下着から見直してみよう。最近はヒートテックなどと言う新素材の下着がヒット商品となっているが、着古した下着がタンスを占拠しているので、整理するのが面倒くさいし、今更新たに買うのも惜しい気もする。
なんとか現状で工夫しなければならない。下着は長袖のシャツの上に野球のユニホームの下に付けるタックトップのような厚手のシャツを重ね着する。1枚より2枚の方が厚さ凌ぎにいいようだ。パンツも膝下まであるハーフパンツに替える。従ってズボン下は不要である。ズボンも厚手になるので、かさ張るのが嫌だからである。
次は上に着るシャツだが、少し厚手でスタンドカラーのものが保温効果は大きい。それだけでは外出には不十分でコートが必要だ。フォーマルな服装はとっくに過去の話。今ではコートもカジュアルな ハーフコートの厚手と薄手のパーカー風と2種類を使い分けている。中でも3シーズン用は春先まで役割を果たすことになる。
足回りは、厚編みの靴下に替える。靴はウォーキングシューズで何足かを1年中通して履いている。靴紐を締めるのは、これも面倒で直ぐに解けるので好きでない。脇にジッパーが付いているのを好んで履く。雪の後など路面が凍ったりする場合は、滑り止めの付いた踝まで包み込むブーツにして、保温と転倒防止に気を配っている。
このように冬の外出は重装備になるので、日課のウォーキングも面倒になり、サボりがちで汗をかくなどという運動はしなくなってしまった。
かくして、冬は運動不足になってしまう。面倒臭がって体を動かさないと身体もなまってしまう。引き締めてかからないと、碌なことは無さそうだ。
2015.12.11 暖冬異変
このコラムでも、今年は暖冬になるということについて記したが、今回は暖冬が世の中の景気に及ぼす影響を中心に言及する。
先日テレビを視ていたら、天気と景気を話題を取り上げ盛り上がっていた。この話題をかいつまんで示すところから始めたい。
冬の気温が平年より1℃上がると4000億円の経済損失が出るという。これは自民党が示している軽減税率の枠に該当する。何故これほどの損失が出るのだろう。その要因を探ると、行楽地については、冬休みが書き入れ時のスキー場は、北海道から長野県辺りまでは雪が間に合いそうだが、新潟・群馬などの首都圏に近いところは積雪が期待できず、客の出足が鈍ると見ている。
食に関しても、コンビニの「おでん」など鍋物の売り上げがよろしくないそうだ。鍋の食材は魚介や野菜・肉など幅広いが、こちらの売り上げも伸びないようだ。季節感がないということは衣料品などにも影響が出る。冬物が売れないと、すぐに春物シーズンがくるので、売り上げが落ち在庫を抱えることになる。電気製品もストーブなどの冬物家電の売れ行きが悪く、電気の消費量も減る。消費者にとってこの現象はいいのか悪いのか、「風が吹けば桶屋が儲かる」という古い喩に習った世相である。
このようにして算出したのが4000億の損失根拠という話である。年末までには大寒波の襲来を神頼みにしている経済界である。
実感としても極端に寒いわけでなく、医者に行っても、風邪にかかった患者をあまり見かけない。インフルエンザの予防注射を受ける人はいるようだが。
地球温暖化は世界規模の危機を齎すものだから、現在COP21(第21回締結国会議)が開催中で、2020年以降の地球温暖化効果の国際的合意を決めている。中々足並みは揃わないが、地球の滅亡に関わる問題だけに、どう協力しあえるか関心をもって見ていきたい。
2015.12.14 無形を表現する
この世界には人の目には見えない存在、例えば空気、臭い、音などの自然現象や、人間の心の内などがある。
これらは見えないものであるので、当然ではあるが、表現するとなると言葉が一番適している。
今回は敢えて言葉でなく描くという手法で無形のものを形として表現することに挑戦してみる。
絵画には写実と抽象という表現方法がある。例えば、風は目に見えないが、感じることの現象の一つだ。これを表現するのが抽象画である。人によって感じ方が違うから、誰が書いても同じ形をとるということはない。私のペイントミュージアムでも「風を楽しむ」で風を抽象的に表現してみた。
抽象画の画家と言えばピカソが思い浮かぶ。代表的抽象画「ゲルニカ」を見ると、人の顔らしきものが描かれいるが、目と思しきものがあるので顔だろうと推測できる位で、その他は訳の分からない造形物の集まりだ。日本版の「ゲルニカ」は岡本太郎画伯が描いていおり、 渋谷駅の連絡通路に壁画として展示されている。これらの抽象画は思想的背景もある。思想も心の働きのひとつだ。こうした絵画はコメントがないと、それとは分からない。
私の好きな画家にパウル・クレーがいる。クレーの色彩や造形の感覚には魅了される。彼はどんな素材も自分のキャンバスにしてしまう。絵の具なども油彩、水彩、クレヨン、グアッシュなど独特の使い方で描画する。題名は付いているが、まったく意味はないように私には思える。想像の世界を表現したものなので、見る人の感性に訴える物としか言えない。それでもその色彩感覚と構成力には驚嘆させられる。
話が少しずれてしまったが、話を私の抽象画への挑戦に戻そう。画家ではないので、色彩感覚や構成力は問題にしないでほしい。あくまでも見えないものを描くのが狙いである。
音や臭いはどう表現すればよいのだろうか。スピーカーを書いて、その前に音符を散らばらせれば一応これは音楽なのだという想像は着く。しかしこれでは具象画で抽象画にはならない、面白くもない。
無形を表現するということは、無謀という気さえする。しかし、それに挑戦することによって何か得るものがあるにちがいない。
2015.12.18 音を言葉で
前回無形のものを表現する抽象画について記したが、その中で「これらは見えないものであるので、当然ではあるが、表現するとなると言葉が一番適している」と記したので、実例として、 今回は音を言葉で表現する短文を作ってみた。想定するシーンは「ある雪の日の外出」としておく。
「とある雪の降る寒い晩のことである。私は近くのコンビニに行くため家を出た。外は粉雪が舞っており、既に3センチほど積もっていた。一歩足を踏み出すと、サクッという音がして、ブーツの足跡がクッキリと見て取れる。サラサラの粉雪がピューという音を伴って身体に吹き付ける。足元が覚束なく鉄のマンホールの蓋の上に足が乗ると、ツルッと滑って危なく転びそうになる。オットットと独り言して、身体を立て直す。脇を車がガリガリというチェーンの音をまき散らしながら通り過ぎていく。前方にボーと白い窓明かりが見える。間もなくコンビニに着いた。
グイッと扉を押して中に入る。熱気が身体を包み込み、防寒コートに付いた雪が水滴となり、ポタポタと滴り落ちる。カウンターの脇のおでんの鍋がグツグツと煮えて湯気を立てている。急に腹の虫がグーと鳴った。」とこんないった具合に、音を言葉で表現してみた。かなりこじつけの部分もあるが、日常私たちが表現する音は切りなくあるようだ。今回示したのは、僅かに11個である。
こうした音を専門にまとめた辞典がある。日本語オノマトベ辞典というもので、ここには4500もの擬音語や擬態語などが収録されている。作家によってはこのような言葉を使うのを極端に嫌う人もいるが、目に見えないものを言葉で表現する場合には、こうした辞典の助けがあると、表現の近道となるのは確かなようだ。
2015.12.22 忘年会
今や忘年会たけなわのシーズンである。一年間の憂さを晴らし、どんちゃん騒ぎをする。いわば一年間のケジメの集いとでも言えよう。
この慣習の歴史は古く、既に平安時代には貴族階級の間では酒宴を設け、歌会などをして「としわすれ」をしたという記録がある。
今のスタイルの原型は江戸時代の武士階級の間では行われていたようである。
若い世代のライフスタイルとは異なるかもしれないが、思うに忘年会は大きくは3つのパターンに分類されると思う。第1が職場仲間の「一年ごくろうさん会」の酒宴とカラオケなどに流れていく二次会などのスタイル。第2が納会といってスポーツうクラブの1年の決算のようなもので、これは先ず議事から入る。年間の戦績と個人表彰などのセレモニーがあって、それから無礼講ということでどんちゃん騒ぎとなる。最後の3番目は例えば麻雀仲間などの趣味の集まりの打ち納めということで、これは前にも記したが、ゲームの合間に食事を取る程度で、前の2つとは趣を異にする単なる年間最後のゲームを楽しむことで、忘年会とは言えないかもしれない。私の場合、一応「忘年麻雀大会」などと銘打って連絡する。
忘年会に酒は付きものだが、一日の憂さを晴らすため職場仲間と毎日酒場に通う常連もいる。毎日その日のストレスを晴らしているわけだから、毎日の締めくくりが亡日会なわけで、12月は特に毎日が忘年会という酒好きというか社交的な人には、最も口実が付けやすい飲み会の連続となる。
話は我々の年代(後期高齢者)になると一年一年が大切である。いつこの世とおさらばしても可笑しくない年齢に達しているので、一年最後の会合は一年の憂さを晴らすというより、今年も良く生き延びましたという切実味をもっている。
今年も拙文にお付き合いいただいたが、残すところ10日を切っている。こちらの方は、多少ネタ切れで何を書こうか四苦八苦しながら年の瀬を迎えることになりそうだ。
2015.12.26 モノ忘れ
忘年会の話に関連して「モノ忘れ」を取り上げてみた。
テレビで見るサプリメントのCMではよく出てくるシーンだが「人の名前が出てこない。覚えられないという人にはこれが一番」といった内容のものを見る。それだけ高齢化すると記憶力の衰退は免れないということである。私にしても当然ながら「思い出せない。忘れる」現象は日常化している。
一つ実例を上げてみる「最近海外ドラマを視聴する機会が多い。中でも連続シリーズで面白いのがあり、仕事しながらよく見る。時には仕事の手を休めて見入ってしまうほどの出来なのだ。登場人物の名前は仲間のように覚えたつもりだ。俳優の名前は全然覚えていないが。ところが知りすぎているほどの名前が、そう簡単に出てこない。顔は思い浮かぶが、名前は喉元どまりで、声にはならない」といった具合に、思い出せない始末だ。
これは毎日の生活の中でも、よく起こる現象で、知り合って日の浅い人ほど覚えられない。昔職場をともにした人の名前は何故かよく覚えている。何十年も経っているので顔はすっかり変わっているだろうから、逢っても見分けがつかないだろうが。これは自分の年齢のせいではなく、面影の変貌が原因だから仕方がない。
他にも忘れてしまうものは沢山ある。私は文章の下書きは手書きなので、漢字は多く書く方である。頭に浮かぶ適確な表現の漢字が出てこない。こういう場合は、手元のタブレット端末で文字検索して見つける。辞書で探すより早い。これが文字を忘れ安くしている元凶でもある。パソコンで文章を書くと漢字の候補が一覧でき、簡単に見つけ出せる。たまに変換ミスのまま仕上げて、公開してから修正することもある。字画の多い文字などはパソコン任せだから、覚えようとしないから、忘れるわけである。人工知能が増殖する一方で、人間の脳はある意味退化しているのではないかという不安すら覚える。
このように他力本願にすると、知能も運動能力も加速的に衰えてしまう。「モノ忘れ」しないためには「苦労しながら努力し続けていくしか道はないのじゃないか」と思う。
2015.12.30 物忘れ(再掲)
忘年会の話に関連して「物忘れ」を取り上げてみた。(26日掲載)
このタイトル、掲載してから気が付いたのだが、8月23日付のコラムで既に紹介済みのものだった。「物忘れもここに極まれり」というお粗末な次第である。年の終わりの恥のかき納めとばかり、開き直って手を加えて紹介する。人の書いたものをそっくり紹介するのなら、今回のようなドジなことも起こるだろうが、自前の作で、それも4か月前公開したものというのは、我ながら頂けない。これは高齢化による記憶力の衰退では言い訳がつかない。内容を比べてみたのだが、とらえ方もそっくりである。その辺は記憶に残っているからだろう。同じ話を繰り返す年寄りにありがちな現象は、もはや他人ごとではない。
今回のミスは、書き直しで再掲の形で公開するので、何がどう重なっているかは、初めて見る人には分からないと思う。よく読んでいる人には「あれっ!これ読んだことある」ということになる。弁解じみた話になるが、テーマを忘年会にひっかけたのが、そもそもの間違い。シーズンに合わせる話題は比較的多いので、つい安直に筆を取ると、今回のような失態を招くことになる。一月も話が重なるような行事が多いだけに2度目のミスは許されないだろう。
ものを書くとき気持ちを集中させる。それは当たり前の話なのだが、前にも紹介したが、喫茶店やコンビニのイートインで書くときは、気持ちを集中できる。ところが、ここのところテレビを見ながら書くことが多い。すると気持ちが散漫になってしまう。そして、今回の失態の実例となった「最近海外ドラマを視聴する機会が多い。中でも連続シリーズで面白いのがあり、仕事しながらよく見る。時には仕事の手を休めて見入ってしまうほどの出来栄えなのだ。登場人物の名前は仲間のように覚えたつもりだ。俳優の名前は全然覚えていないが。ところが、知りすぎているほどの名前が、そう簡単に出てこない。顔は思い浮かぶが、名前は喉元どまりで、声にはならない」どっちつかずの気持ちで、気持ちが散漫になっていれば、名前など覚えられようはずもない。
カッコ書きが物忘れの内容の一部を書きだしたものだが、要は創作活動は「・・しながら」で済ませるほど安直ではないということを思い知って、今年の筆じまいとさせてもらう。
今年もこのような拙文にお付き合いいただき感謝いたします。皆様にとって、来年が良い年となりますように。
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