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2015.4.1 サクラ
 今年もまた桜の時期がやってきた。これで春爛漫を実感できる。
 今回は桜の花ではなく、桜にちなでんだ別なものや呼び方などを色々調べてみた。
 先ず頭に浮かぶのが桜肉、馬肉のことである。これは、馬肉が桜色していることによる。イノシシ肉を牡丹肉というのに似ている。
 馬肉はあまり食べたことはないが、馬刺しは旨いらしい。色が直ぐ変わるので、昔の人は、鍋にすることが一般的だったようだ。桜色をしていることから名前を付けられている魚介類も多い。例えば、サクラエビとかサクラガイ、サクラダイなどと言ったものだ。
 次に思い浮かぶのは、囮(おとり)に使うサクラ。国語辞典や類語辞典で調べると「さくらとは、露天商などの仲間で、客のふりをして見物人の買い気をそそるようにしむける者」とある。語源は「江戸時代に芝居小屋で歌舞伎をタダ見させてもらうかわりに、芝居の見せ場で役者に掛声を掛けたりしてその場を盛り上げること、またはそれを行う者のことをサクラといった」とある。
 桜がつくモノで誰でも知っているのが桜餅で、これには塩漬けの桜の葉を使う。桜の花を使ったもので、結婚式の待合室で出されたりするのが、桜湯で塩漬けの桜の葉にお湯を注いで飲む。
 他に思いつくものでは、学生帽に付ける徽章で、小学校では定番だった。今は公立学校では、ほとんど見かけなくなったのは少し寂しい。
 まったく趣を異にするのが、警察小説を読んでいて出合うサクラは、警視庁の公安部のことでチヨダなどともいう隠語である。これは地名(桜田門・千代田区)によるものであろう。
 このように桜は多方面に言葉を散らしているが、矢張り本物が一番。今年はムービーで孝道山の桜を紹介(3月29日撮影)したが、撮影後に満開となった。例年より開花が早く、満開も早かった。週末までもつか、木になる花し(気になる話の駄洒落)ではある。

2015年4月4日 理学療法
 私は早い時期から腰を痛め、それが今では持病となっている。最初は50代初めクシャミが原因でギックリ腰になった。草野球の所為で、準備運動不足が原因である。その時は、鍼灸名人の手で治ったが、その後ちょくちょく腰痛が出るようになった。情けない話だが、重いものを持ったり、無理な姿勢を少し続けただけで、腰に来る。
 整形外科の見立ては椎間板ヘルニア、今は究極の腰痛段階の脊椎管狭窄症だと、医者に言われた。
 こうなると、もうスポーツは出来ない。定年後に始めたソフトボールのチームも15年続けたが、昨年退団した。
 今はマイペースのウォーキングが唯一のスポーツと言えば言えないでもない。歩かないと、人の筋肉など簡単に落ちてしまう。筋肉が落ちるのは簡単だが、復活には倍する時間がかかるという。
 さて、腰痛の治療であるが、最初は薬物投与の対症療法専門だったが、今年なって、医者のアドバイスに従い、理学療法を始めた。これは実際に理学療法士が傷んでいる箇所を確かめ、ストレッチや日常の足腰の管理にアドバイスしてくれるもので、力強い味方になっている。
 放っておけば悪化するのは目に見えているので、今は自分で矯正していくよう、狭窄症のためのストレッチや、腰を保護する道具にも頼るが、座る時の姿勢の維持や、歩く時の腰のサポートにも、気を配っている。
 こうした小さな積重ねで、少しでも長く足腰を守ることができると信じて、自力で少しでも衰えを抑えるよう励むしか打つ手は無いようだ。

2015.4.7 話を合わせる
 ボタンの掛け違いという言葉があるが、不思議なほど人の考えは、何かにつけ食い違うものだ。
 いい例は、国会中継のお馴染みのシーン。「右と言えば左、上と言えば下、ああ言えばこうと」よくもまあ、あんなに意見の食い違いがあるものだと感心するほどだ。
 今回は政治の話をするわけではない。人の意見の食い違いについて考察してみた。
 話もいよいよ頭に関するところまで達した(五感については記述済み)。
 議会の例を見るまでもなく、人それぞれで、感じ方、受取り方、解釈の仕方は、まさに千差万別と言えよう。
 あまり意見の食い違いを正そうとすると、諍い(いさかい)の元になる。私などは今更議論するのもバカバカしいと、適当にやり過ごすのを常とするようになった。調子がいいやつだと思うかもしれないが、大したことでもないことに、無駄な神経を使うのは、身体(頭)に良くないからだ。
 飼い犬や飼い猫は、飼い主(ご主人様)には全く従順である。何をされても何も言わない(話せないからか)、態度でも不服従な様子もないから、相手の行為を容認しているのだろう。それ故、犬や猫の馬鹿可愛がりがあるのだろう(私もその口だが)。
 そこをいくと、人は生まれついて直ぐから個性があって、親の思い通りになる子などいないと言っていい。
 何もひとの子を犬猫扱いする気は、さらさらないが、顔は酷似して見分けがつかない双子でも、性格は真反対だと言うのは、通説となっているくらいだから、個性むき出しで生まれてくるわけだ。その延長線上に成長した人格が形成されるのだから、ますます自我は強くなっているはずである。
 そこのところを踏まえると、人とのコミュニケーションの取り方も、自ずから学習できる。今まさに花真っ盛りのシーズン。島倉千代子さんの歌に「人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ、咲き乱れるの」の歌詞ではないが、それぞれ、見頃、ツボを抑えてやり過ごせば、人生捨てたもんでもない。

2015.4.11 きっかけ
 何を始めるにもきっかけがある。きかっけとは、動機のことで、行動に移るという点で、きっかけの方が強い意志を感じさせる言葉だ。
 よく第二の人生という言葉は、現役を退いて定年後に再就職する場合などに使う。これは人生の節目を意味しており、何かのきっかけとなる機会と言えるだろう。
 人によっては、同じ路線を歩む場合が多く見られるが、そこには強い自己判断はあまりなく、新しい働き場所に異動するといった感じが強い。
 すっぱりと現役を退き、それをきっかけに異質の職業に鞍替えする人も結構いる。広義の天下りと言う性質を持つものでなく、我が道を行くというスタイルだ。これには結構勇気と決断が必要だ。それだけ失敗と後悔を背負うリスクが伴うからである。
 私の場合も後者で、あえて自分のやりたい道に進んだ。収入的には厳しいものがあったが、学ぶものが、それに勝るものがあったので、後悔はしていない。それが今こうして、Web Writer(インターネット上で自己表現するなりわい)などと言ってはばからない所以(ゆえん)だ。
 こうして第二の人生は続いているのだが、次のきっかけと言えば、後期高齢者の仲間入りをした時を上げられる。
 今度は肉体的な節目である。体の衰えを強く感じるのは、丁度この頃になるのは、殆どの高齢者に通用する話だ。各種のクリニックに通うことになる。そこはほとんどが、俗に言えば、じいちゃん、ばあちゃんの姿であふれている。
 身体の老化がきっかけで、体の管理の重要性に覚醒した。身体は鍛えなければ衰えるというのは自明の理である。薬は対症療法なので、病を治すのでなく和らげる程度と考えた方が良いだろう。
 老いに対抗するには、動くこと、手入れをすること、生活のリズムを守ること、頭を鍛えること等々いくらでもある。こうしたきっかけを心身のギヤチェンジのチャンスと捉え「今できることは今やる心得が肝要だ」と、体に鞭を入れている。

2015.4.15 どっちを取るか
 誰でも事にあたって逡巡することはあるはずだ。くだらない例かもしれないが、外で昼飯を取る時中華にするか、洋食にするか、はたまた和食とするか決めかねて、食堂街をウロウロした覚えがあるのではないか。
 このように世の中、迷いのタネを探したらキリがない。一つのことを決めるのに、複数の選択肢があるのは、いいことなのだが、厄介でもある。
 そんな例を他に上げてみると、本を購入する場合など、私の場合、この本と、特に決まっていない時は、先ずは本屋で立ち読みをする。だが、その場で購入することは雑誌以外は殆ど無い。気が惹かれると、メモしておき図書館に行く。そこで所在を検索し、あれば借りてくる。それでコレはという本は買うことになる。先に述べたように、本屋で新刊書は買わない。amazonで調べると、半値以下で必ず見つかる。そこで初めて購入することになる。一日か二日で自宅に届く。このようにたかが書籍でも手に入れるまでに、かなりの回り道をしていることが分かる。
 ことほど左様に物品購入には、数ある中でこれといったものを探し(選び)出すという作業が欠かせない。たまに現品を見ず、カタログで選ぶと、どうもしっくり来ないモノもある。特に衣類は実際に試着しないと、ダメのようだ。こうした選択のミスは珍しいことではない。
 詰まる話、どっちを取るかと悩んでいるのは、ウィンドウショッピングのように、そのこと自体を楽しんでいるのかなと思うことにしている。

2015.4.18 虫の居どころ
 身体の中にはいろいろな虫が住んでいる。と言っても寄生虫の話ではない。
 心の中に潜む虫の話である。数え上げると実にたくさんの虫が、住み着いているのには驚くほどだ。
 タイトルは「虫の居どころ」だが、これは「虫の居どころが悪い」などと使われ、不機嫌で直ぐに腹を立てる状態を表す。似たような言葉に「腹の虫が治まらない」などと言うのもある。これは「怒る気持ちが鎮まらない」ことを表している。
 大体が「虫」であるので、悪い意味の表現に使われるのは仕方がない。次の言葉「虫が好かない」は何となく気に食わないことをいう。「虫が知らせる」は、悪い予感がすることで、「腹の虫が鳴る」は空腹時にお腹が鳴ること。「虫がいい」は自分のことばかり考えて人のことを考えないようすのこと。まだまだある「可愛い娘に悪い虫が付く」「虫も殺さぬ顔」は優しい顔をしていることを言うのだが、次にくる言葉は「冷酷な人」というようにひっくり返す表現に使われる。と留まるところを知らない、人と虫との関係はどうもよろしくないようだ。
 クイズでもないので、この辺で止めるが、最後に一言。人を揶揄する言葉に「弱虫、泣き虫」などと虫扱いする言葉もあるが、どっこい「一寸の虫にも五分の魂」という諺があるのも忘れないでほしい。

2015.4.22 体で表現する
 「縦・横・斜に振るものな~んだ」のっけからナゾナゾで始める。答えは「首」縦は「頷くこと」横は「否定すること」斜は「はてなと言った疑問を示すこと」ということを表現している。
 このように人は言葉でなく、体で自分の意志を伝えたりする。コミュニケーションの一つで、広く知られているボディラングェジの一種である。社会学者はこれを「非言語行動」などと難しげな分類をしている。
 体で表現するする方法で、直ぐに上げることのできるものがかなりある。ただこの表現法はお国柄を反映しており、万国共通というものでもない。その辺を理解しないで、ほかの国で同じ手法を使うと誤解を招き、飛んでもないことにも発展するので、注意が必要である。
 指で表現するものでは、親指と人差し指で作る円は、わが国では「お金」ないし「OK」のサインで通じるが、ブラジルなどでは性行為そのものを指すとされているので、下手に日本女性がブラジル男性にこんなサインを出すと、どういうことになるか察して頂きたい。
 これも指で示すサインで「サインはⅤ」で知られる、人差し指と中指を広げてⅤ字を相手に見せるのは、勝利のアピールである。必ずしも勝利だけではなく、写真のポーズとして女性が街中でこうしたサインを出して、写真に収まる姿を見る。最近は「ハイチーズ」だけではないようだ。
 他にもそれぞれの指で示す表現がある。競技の優勝者がゴールを切るとき、人差し指を高く掲げて宣言するのが「No.1」のポーズ。これは拳固を突き上げる場合もある。
 最後の例は小指のサイン。日本では男が対話の中で、小指を立てて表現するのは「彼女」のこと「君のこれは」などと言いながら小指を立てる。
 今回は限られた「非言語行動」に絞ったが、普段何気ない仕草で「体で表現」している覚えは、誰にでもあることだろう。

2015.4.25 喉元過ぎれば熱さ忘れ
 しばらくの間、体に関する話題にお付き合い願いたい。今回は喉(のど)に関する諺や成語(ひとまとめで慣用的に使われる言葉)について、その意味や使い方について取り上げた。
 のどは口から腹に通じる入り口にあり、食物を飲み込む場所と言えるだろう。声帯もその上部に付いているので、発声の源でもある。
 この喉に関する諺で最も有名なのが「喉元過ぎれば熱さを忘れる」である。どのような状況を言い表すかと言うと、苦しい時が過ぎれば、その時の苦しさもその時受けた恩も簡単に忘れてしまうことのたとえに使われる。
 表現例を上げると「困った時にはさんざん世話になりながら_で、今は知らん顔だ」などを引き合いに出すことができる。もとは「熱いものも飲み込んでしまえば、その熱さを忘れてしまう」からきている。確かに舌は火傷しても、喉が火傷するとはあまり聞いたことは無い。私なども失敗しても性懲りもなく同じような誤りを犯し続けている。困ったものだ。
 他の例を上げると「喉から手が出る」という言葉がある。これはどうしても欲しいと思う気持ちのたとえで「_ほど欲しい幻の名品」とか「_欲しかったチケットがゲットできた」などと使う。この2つが代表的諺だが、他にも「咽喉の地」と聞きなれない成語もある。これは極めて重要な場所のことで、高校球児の憧れの地甲子園などがそれに該当する。 これもあまり聞かない「美味も喉三寸」という諺がある。これは楽しいと思うことは一瞬しか続かないというたとえに使われる。食べ物がおいしいと感じるのは喉を通り過ぎる一瞬に過ぎないことからきているが、いかにも日本的な諦めの感じ方を表現している。
 こうして見ると、どうも嬉しいたとえにには使われていない。口直しではないが「のど自慢大会」などは、喉の良さを競うもので、全国から集まった歌い手が、自慢ののどを披露するもので、これはこれで、鳥がさえずるのに似て、本人が一番酔いしれている風に見え、それが面白い。

2015.4.29 色いろいろ
 人によって色の好みは別れる。黒系の地味好み、赤系の派手好み。または暗色系とか明色系好みというか、どちらにせよセンスの違いが出るものだ。
 私にしても色の好みはある。着るものは殆ど黒か紺系と暗い傾向が強い。夏だけ白色系に変わるが、これは好みとは別で季節色である。
 個人的話題で恐縮だが、ホームページ上の色使いにも、自分の好みが出てしまう。それが顕著に出ているページが「字源」だと思う。この画像は黒を背景に、多くて4色で済ましている。これには理由があり、解説文字や元になる文字に配色する場合、目立つことが優先するようにしているからだ。目立つようにするため、背景の黒の反対色が基調になる。
 実際に絵を描く作業(CGのページ)となると、プロの画家と違い、悲しいかな風合いとか、色合いといった独自の味を出すのは難しい。大体、行き当たりばったりの空想を、画像として描きたいなどということは、無謀な挑戦なのかもしれない。トップ画像や字源文字のような塗り絵とは違って、自分で創造しなければならないので悪戦苦闘の連続だ。
 イメージしたものを表現するということが、数を重ねるごとに難しくなるのは何でだろうか。「どうもネタ切れなのかな」などと疑問が湧いてきて「どこまで今のリズムを刻めるか」などと弱気の虫が顔をのぞかせたりする。
 絵を描いたり、色彩を付ける作業は、色気が出てくるもので、変に恰好付けたくなるものだ。大体が「年寄りの冷や水」のような仕事で始めたのだから、そんな色気はさらりと捨てて、真っさらな白いキャンバスに向かえば、弱気の虫も何処かへ行ってくれることだろう。