2015.5.2 強気(攻め)と弱気(守り)
前回のコラムで「つい弱気になってしまう」と弱音を吐いたが、人には気質というものがあり、表面上では見分け難いが、どこかで強気とか弱気といった一面が顔をおのぞかせる。
20世紀ドイツの精神科医クレッチマーは、人の気質を類型学的に分類したごとで知られている。彼によれば、人の気質は体型により3つに分類できるとしている。
最初は、細長型の人は分裂気質だという。 静か、控えめ、真面目が特徴だが、敏感性と鈍感性が同居しているとしている。
2番目は、肥満型の人は躁うつ気質だという。社交的で面倒見がいいが、反面陽気だと思うと急に怒りっぽくなったりするとしている。
3番目は、筋骨型の人は粘着気質だという。几帳面で頑固、自説を曲げずストレスがたまりやすく、爆発すると手が付けられない一面がある。
古い学説なので、変化の激しい現代では通用しない説かも知れないが、言われてみれば当たっていなくもない。
学説のように外見から判断できれば、簡単な話だが、人の体型は年齢にも影響されるし、食生活でも変えられる。スポーツジムなどで体型を変えるのも簡単だ。
となると、どのようなところで人の性格は表れるのだろうか。一例を上げると、野球などのスポーツのプレーにその傾向を読み取ることができる。
プロ野球を見ていると、キャッチャーのリードに性格が表れる。強打者と見ると外角一辺倒のリードをする。長打が怖いからだ。同じコースばかり投げていれば、必ず打たれてしまう。そこに弱気が見える。逆にピッチャーは、大体がお山の大将が多いから、攻めていきたい。これではベストマッチにならない。人馬一体ではないが、息が合わないことには先は見えてしまう。
野球選手の場合、一見筋骨型が多いが、見かけによらず気質はバラバラのようだ。これは好みの問題だが、私はフルスイング一徹の小笠原選手(現ドラゴンズ)のような強気な選手に惹かれる。
2015.5.5 デザインすること
今日はこどもの日。ゴールデンウィークもやがて終わる。多くの家族連れがドライブや行楽地で楽しい時間を過ごしたことだろう。
こどもは親にとってはかけがえのない宝物(であってほしい)だ。
親は自分のこどもをしっかりと育てるために、ある種のビジョンを持っていると思う。これは育児という名のデザインとも言える。
広義のデザインとは、人生設計をも含んでいるからだ。
改めて、デザインとはどのように定義されているかを調べてみると、次のような説明に出会った。「デザインとは、ある問題を解決するために思考、概念を組み立てて行い、それを様々な基準に応じ表現すること」とされている。デザインを広くとらえると、人間の行為をよりよい形に適合させるための計画だと言うふうに理解できる。
事を始めるに当たって、設計を練りあげると言う作業は、デザイナーだけの仕事ではない。普通の人でもある種の設計図を描いて事に当たっているわけで、そうした意味合いから、毎日デザインに関わっていることになる。
最初にゴールデンウィークの家族連れの話を引き合いに出したが、私達の周りはデザインで満ち溢れていることになる。生活する上で、一定の空間の中で暮らすということは、デザイン抜きには成り立たないからだ。
デザインというと、形をレイアウトする図案や設計されたモノをイメージしてしまうのだが、これは狭義な捉え方である。調べてみて初めて、デザインの広がりを再認識した。
自分としては「思い付きと好奇心だけで、行き当たりばったりにことを行うと、必ず火傷する」と学んだ次第である。本音を言わせてもらうと、定義にあるようなデザインは緻密すぎて苦手だ。ラフなデザインに止めておくのが、自分には相応しい。
2015.5.8 再び風邪をひく
時の風物詩に5月6日は立夏と記したが、二十四節気のうち立夏から立秋までの三ヶ月が夏ということになる。これは、陰暦では4、5、6月に当たり、太陽暦では6、7、8月が夏とされるため、2か月ほどのズレがある。実感としては、やはり太陽暦が「夏だウー暑い」という風に体感する。
私のコラムでは、節気ごとにその日をテーマにした話題を提供しているため、季節感が陰暦仕様になってしまうのは避けられない。
それはそれとして、今年のゴールデンウィークは天候に恵まれ、各地で夏を実感する暑さが続いた。連日夏日となり、道行く人の半袖姿が目についた。気まぐれなお天気ゆえこれからも、暑くなったり寒くなったりするに違いない。
今年の陽気は、コートを脱ぐ間もない、突然の夏の到来。これには私のような非弱な年寄りには、肉体がついて行けない。春先に引いた風邪がまた舞い戻ってきた。症状は全く同じだ。
3月1日付のコラム「風邪にご注意」と、自戒したはずなのに、2ヶ月後にこの体たらくである。僅かな寒暖の差に対応できない自分が情けない。
という弁解がましい話で、ゴールデンウィークは約束した所用を果たすため出かけたほかは、家に閉じこもって、朝はMLB午後は9連戦中のプロ野球にと、テレビの前で過ごすことになった。我が応援するベイスターズは、5日に遂に首位の座に着いた(万歳)。相変わらず咳が収まらず悩まされているが、良い静養期間とはなった、私のゴールデンウィークだった。
ここで弁解の一句 うかつにも 寝冷えして引く 初夏のカゼ (風楽)
2015.5.12 マニュアル(操作手引書)
このコラムをご覧になっている方は、パソコンまたはタブレットやスマホをお使いになっていることだろう。
こうした機器を購入すると操作手引書が付いているはずだ。マニュアルとよばれるもので、初期設定などには欠かせない必要な文書である。
パソコンのソフトなどもパッケージで購入する時代は、箱の中に必ずマニュアルが同梱されていた。ソフトによって厚さは異なるが、立派な冊子であった。
ところが、ソフトをダウンロードして購入するようになると、紙のマニュアルは手に入らない。マニュアルも電子化されて、文書形式の普及版のPDFというファイル形式で、提供されるのが当たり前になった。
これには二種類あり、簡単手引書と詳細マニュアルに分けることができる。最近の格安ソフトは、コストを減らすため、詳細マニュアルが無いものがある。ゲームなどはそれでも問題ないが、文書作成や描画ソフトにこの手抜きをされると、仕事にならない。手探りで機能を探し当てるなどという、時間のかかる作業が繰り返される始末だ。そんなソフトは使わなければよさそうなものだが、二重に出費するのも惜しく、ブツブツ文句を言いながら、使い続けているというのが実情である。
紙のマニュアルと電子マニュアルとでは、大きな違いがある。同じ400ページのマニュアルでも、本にして提供されているマニュアルのほうが断然使い良い。辞書を引くように、ペラペラとめくりながら拾い読みをすることができるのは、冊子に限る。一方の電子マニュアルは、かさばらないし、クラウドのように共有の場所に置くことができ一見便利そうだが、困ったときの辞書頼みではないが、使い勝手では本にしたマニュアルに大きく劣る。
使い慣れたソフトを常用するのが好ましいが、新機能に惹かれてダウンロードソフトを購入するときは、試用版で試してみて、マニュアルも使い良い物が整っていることを確認してから購入することをお勧めする。
2015.5.15 ご近所の老鉄人
我が家の近所に齢90歳を優に越したご老人が住んでいる。この御仁、毎日午前午後の散歩を欠かさない。日課のようで雨の日も歩く。ここまでは特に珍しい話ではない。
腰がほぼ直角になるほどに曲がり、地面だけ見つめながら歩くわけだが、足の大きさの歩幅を刻んで歩く。これだけでもよく歩く気になると思ってしまうが、これはおせっかいな見方だ。
ここまでも、特段珍しさはない。この御仁はご近所で知らぬ人がいないほど有名である。それには訳がある。歩くたびに大声を発するからである。救急車のように遠くから、その存在を知らしめながら、歩みをすすめる。この発声はよく耳を傾けると、どうやら歩数を数えているようだ。切れ切れだが20、30などと聞こえる、これは更に良く観察すると、規則正しいわけではない。100に近付くと、急に16などと変わってしまう。
歩数計の代わりに数えているのではなさそうだ。これは一種の気合のようだ。難行苦行の念仏ぐらいに受け止めたほうが良さそうだ。
この御仁の散歩は単に歩くことが目的では無さそうにも、私には見える。時々コンビニから出てくるのを見かけることがある。レジ袋を下げていたり、手ぶらの時もある。店の中でも声を発しながら見まわるのだから、店員は最初はびっくりしたことだろう。
人と話をしているところは見たことはない。人間嫌いなのかと思ってしまうのだが、本人は意外と街に出ることで、人との接点を見つけているのかもしれない。 私も散歩は一人なので、会話なしで帰ってくるのが普通だ。散歩のコースには必ず商店街など人で賑わう場所が入っている。こうした場所では、直接的コンタクトがなくても、人との交わりを感じるものだ。
かの御仁も人のいる場所にいるだけで、生きていることを実感しているのだろう。
難行苦行とも見受けられる散歩で、時を刻む姿を見るにつけ、世の中には人知れぬ鉄人がいるのだという感銘すら覚える。
2015.5.18 生活六考(はじめに)
今回から7回に分けて、日常生活に欠かせない衣食住のほかに、私の独断と偏見で選んだ、健康、労働、学習の3つ健労学を加えて、生活六考と名づけて考察してみる。
生活に欠かせない事柄は他にもあると思う。例えば「金が一番だよ」という人もいるだろう。その辺は、労働の対価として金はあると考えていただきたい。
ここの事項に入る前に、夫々について、そのポイントについてまとめてみることにしよう。
衣とは衣料品のこと。生活に着るものは欠かせない。これらは季節や天候・気温の変化にも左右される。下着から上着までだけでなく、靴下やハンカチに加え、帽子などを入れるとその品数は多く、家の中のスペース占有率は相当なものになる。
次に食であるが、これは三度の食事から飲物、間食の類いまで入れると、両手の指の数を超えることになるだろう。
住は住居のこと。一生働いてやっと手に入れた最大の財産。持ち家はついの棲家となるもので、狭いながらも楽しい我が家と言ったところか。
新たに加えた、健は健康のこと。このことは特に70歳の坂を超えた頃から、急速に維持が難しくなってきている。この手の話題はコラムでも多く語ってきたところだ。普段の心構えなどに触れてみたいと考えている。
労は労働のこと。これは最初にも触れたが、対価を求めるもので、それが生活全般の源泉になることは言うまでもない。今は年金や高齢者向け保険制度、市の高齢者優待パスなどの恩恵により労働の機会も減ってはいるが、対価を求めない労働サービスに参加している高齢者も多い。動けるうちは動いた方が良い。
学は学習のこと。学ぶことに目覚めたのは、つい最近、このホームページを公開するようになってからだ。雑文とは言え思いつくままにというほどの知識はない。色々調べることが、学ぶにつながっている。これは描くという作業にも共通している。終生学び続けることが、生きている証ぐらいには思っている。
2015.5.22 生活六考(衣)
生活六考最初は、衣(衣服と身の回り品を含む)について考えて見ることにする。
原始の時代から人は身を守るために、体に纏うものを着けて生活してきた。
時代の変化と進歩に伴い、それは大きく変貌し続けている。革から繊維へと変わり、素材や機能性が追求され、より快適なものへと技術の革新が進んでいる。
戦国時代には、甲冑などといった今では不要なものが、武士の世界では欠かせなかった。今でも博物館に行けば見ることができるが、位に応じて華美で芸術的造りであり、それは今の時代でもブランド品という名に変わって生き続けている。
現代は素材革命により、安価で軽量かつ機能的な衣料が簡単に手に入る。ユニクロのヒートテック、ゴアテックスのレインウエア、ケプラーの防弾ベストなどは素材革命の代表格といえよう。
日本製と中国製といった価格の2極化も進んでいる。贅沢を言わなければ、中国製で十分事足りる。
最近聞かなくなった言葉に「一張羅(いっちょうら)」という言葉がある。これは「着たきり雀」とう言葉にも通じる。いつもそればかり着ているもので、他に選択肢がない着方で、貧困の極みの言い換えともいえよう。着るものに事欠く状況は、わが国では殆どないだろう。子どもの頃当たり前だった、お下がり(おさがり)という言葉も消えてしまった。兄から弟へ、姉から妹へと引き継がれていくのが、お下がりである。当然下に行くにつれ、つぎはぎで生地も痛んでくる。仕立て直しは母親の仕事で「母さんが夜なべして編んでくれたセーター」でもないが、何かそんな時代があったということは、今の若年世代には信じられないだろう時代だった。
さて、身の回りを見れば、社会人時代の背広と服飾類が沢山残ったままで、洋服ダンスや衣装箱の中で眠っている。もうあまり使われる機会はないだろう。そうした無用化した衣装類で我が家の狭いスペースはさらに狭くなっている。これも飽食の時代のせいなのか。
2015.5.25 生活六考(食)
最近テレビでは、必ずと言ってほどグルメ番組に出合う。特にB級グルメ番組は大衆路線を狙っているので、それに触発されて放映された店には長蛇の列ができる。これは食に対する興味なのか、物見高い人間の性(さが)なのか定かではないが、人の食に対する関心(欲求)は、幾つになっても衰えないものだ。
先の大戦の少し前に生まれた私には、食は「ひもじさ」の記憶に直結する。その反動もあり、飢えを凌ぐために食べた食物に嫌悪感があり、懐かしさは無い。従って、今食べたいものを食べるという傾向が強く、どちらかと言うと、偏食気味だ。甘い物に飢えていたため、その方には目がなく、挙句の果てに生活習慣病に罹り、食の制限と管理下にあるというのが実情だ。
最近ではそれにも慣れ、出されたものには注文を付けずに食べるし、間食も減った。当初はストレスを感じたが、人間とは直ぐに環境に同化できるようだ。
食は生活の基本であるので、何でも美味しいと思って食べるのが一番だが、贅沢な話「喉元過ぎれば・・・」の例えを、このコラムで書いたが、妙に味に敏感になってしまい、今流行の「うまみ」を求めたりするのは贅沢か。
「衣食足りて礼節を知る」という諺がある。この意味は「生活にゆとりができて、初めて人は礼儀に心を向けることができるようになる」であるが「昨今の世相に見るように、物質的な充足が必ずしも礼儀正しい秩序を生むとは限らない」(明鏡ことわざ成句使い方辞典)これには同感である。
確かに自分にしても、衣食は足りているが、礼儀を重んじるように変わったかは疑問がある。どうも昔の向こう三軒助け合った時代のほうが、礼儀も作法も重んじられていたように思えてくる。その辺のことについては「学」の項目に譲るとして、毎日食べていける今に感謝することにしよう。
2015.5.28 生活六考(住)
生活する上で、屋根の下で暮らすのが「住」である。住の語源を今回「字源」で紹介しているが、人と灯火との組み合わせによるとある。確かに夜一つ光の下に家族が集う姿が目に浮かんでくる。
私は結婚するまで生家で暮し、世帯を持って初めて、自らの意志で転居した。とは言うものの公舎住まい(役人だった)であったが。これがひどいオンボロな住まいで、常々どこかに自分の家を持ちたいとは考えていた。折しも近所に手頃なマンション(狭い共同住宅だが)が建造中で、これなら場所的には駅にも職場にも近く、地理的条件が良かったので、ローンを組んで、初めて我が家というものを手に入れた。
自分の家を持つということは、このシリーズのはじめにポイントととして示したように「一生働いてやっと手に入れた最大の財産。持ち家はついの棲家となるもの」なので、サラリーマンにとっては、ローンという大きな荷物を長く背負い込む覚悟での決断とななった。
引き換えに、それまで比較的気楽に旅行したり、買い物をしていたという「余裕」というものが消えてしまった。それはいいとして、考慮が足り無かったのは、孟母三遷の教えではないが、子供にとって教育環境を考えて選ぶということを忘れていたことだ。進学などを考えると、転居の場合、これは大切な要素になる
マンション住まいにも問題はある。今更どうにかなるということでもない。共同住宅に住むということも色々な制約があり面倒なことも多い。従って一時しのぎに住む人も多く、頻繁に引っ越しがある。 それらを見ると、人の戸建志向の強さがうかがえる。特に長男には家を構えるという意識が見られ、住むということにも、家を継ぐということを考慮すると、結構ややこしいものがあるようだ。
私などは今の場所で一生を過ごすことになるだろうから、これからはため込んだ余計なものは整理して、狭楽しい生活を確保したいなどと、とても出来そうもないことを考えている。