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2015.6.1 生活六考(健)
 このコラムそのものが、自分の生活に活を入れるために始めたもので、年齢的にも後期高齢者の仲間入り直前だったので、身体の方は結構くたびれていたのはやむを得ない。
 今回のコラムにしても、自分の身体を検証しながら書いているので、必ずしも標準的健康体を基準にして語るわけではない。老後の健康をどうコントロールしていくかについて考えることになる。
 5月26日付日経新聞に興味深い記事を見つけた。日本福祉研究チームが2003年10月から10年間にわたり、愛知県に住む65歳以上の男女12,000人に対する健康追跡調査を行った。それによれば「その内約3000人が死亡、約2300人が要介護2以上、約2000人が認知症」という結果が出た。65歳以上というので何歳までが対象か分からいないが、約6割が死亡をを含め、大きな障害を持つということだ。丁度私の年齢が対象になっているので、周りを見渡すと、この数字は頷ける。同級生でどこも悪くない者など見当たらないし、毎年会うことになっているクラス会も、何人足を運んでくれるか、期待は持てない。
 なお、この調査では認知症に罹る人の発病率は、人との交流が少ないほど発症率が上昇すると結論づけている。つい最近にも書いたことだが、苦しくても人との接触を保つことが、健康を保つ秘訣なのかもしれない。それともう一つ大切なことは、何か肉体的にも、精神的にも習慣的に行動することが欠かせないと私は考える。生活に刺激は必要で、何の感動もない日常は徐々に人を蝕んでいくように思えるのだ。「憎まれっ子世に憚る」の喩えではないが、元気なお年寄りには、そのくらいの頑張りを見せて欲しいものだ。

2015.6.5 生活六考(労)
 先ず労働の質について考えてみよう。
人は職という名の形で就労する。生まれた環境や、持って生まれた才能が伸ばされる機会に恵まれた人は、家業を継いだり、芸術の道に進むことになる。
しかし、大半の人は企業に就職したり、公務員になったりする。
 私なども特別な才能や技術があるわけではなく、なんとなく公務員になった。
 これを労働の質という観点で見ると、特に専門性もなく、普通に真面目に仕事をしていれば、毎日は平穏に過ごしていくことができるものであって、好き嫌いを言える身分でもない。違った分野に転勤させられるのは当たり前の世界だ。
 無事定年まで勤め上げ、人並みの生活もできた。
労働は対価のためにあるといっても過言ではない。 普通の人の「労」とは、このように、生活の一手段とも言えるだろう。
 ある意気込みと目的を持って仕事を始める起業家という人も最近は多く見ることができる。これらの仕事はハイリスク・ハイリターンで失敗の確率が非常に高い。高い志を持って始めるのもいいが「出る杭は打たれる」の喩にあるように足を引っ張るものも多い。
 こうしたこともあり、高学歴者は未だに職場として大企業や官庁志向が根強い。そこに就職すれば、高い報酬とやりがいのある仕事が待っていると信じているのだろう。その結果豊かな生活を享受できる者も多いのは確かだ。
 これで完結してしまうと、人生それほど面白いものとは見えなくなる。情報化とかイノベーションと言われて、従来型の労働環境が少しづつ変わってきている。質の変化である。都会一極集中から、Uターン、Iターンといった地方への労働力拡散の動きが出てきているのは喜ばしいことだ。とは言いながら、基盤的には弱い仕事なので生き残りが難しいのも事実。折角出始めた芽を、国や自治体の力と知恵で、多様で安定的労働環境が定着することに期待するとしよう。

2015.6.8 生活六考(学)
 学ぶということを語るとなると余りに範囲が広すぎる。今回も自分の身に振り替えて「学ぶ」ことを考えることにする。
 知識を取り入れることが学ぶの基本となるが、これにはいろいろな手法がある。
 私の場合、本から得るのが殆どであるが、人から話を聞いたりネットで仕入れたりする場合もある。
 今もこうして物を書いているが、これもこれまでに学んできたものを、断片的に引き出して、それにちょっと味付けをして創作という形を取っている。こうした知識の断片と自分の考えを合わせる加減が微妙で難しい。
 ここで考えるという言葉が出てきたが、考えの素は当然仕入れた知識に負うところが多いが、それだけでは、自分の考えではなく単なる受け売りに過ぎなくなる。下手をするとコピーしただけになってしまう。
 際どいところで、そのようの色合いの強い文章になってしまう場合もある。自分らしい考えとしてまとめるのはそれほどに難しい。
 学ぶ習慣が身に着いたのは、最近のことで、このコラムを定期的に書くようになってからである。そのコラムにしても、老後の暇つぶしのつもりで始めたものだ。ところがホームページは更新が生命線であり、できるだけマメに行わないと、人の目に留まらないことになる。無論内容が伴うのが大切なのだが、そのところはあまり自信がないが。それだけに取材を通じて多くを見聞(学ぶ)する必要がある。
 私にとっては、その辺のところは、テーマという目的を持って臨むことができるので、そうした行動することが楽しい。実体験を通して学ぶことが、考えたり、創作する原動力になっていることは確かだ。

2015.6.12 今だけのアート
 実際に実物を見たわけではないが、町中(なか)では瞬間芸のアートが盛んなようだ。
 これはテレビで見たものだが、路面に水で絵を描く、それも鉛筆でスケッチブックに書くようによどみなく仕上げていく。その手際の良さと、仕上がりに驚かされる。太陽の強い光の中では、直ぐに蒸発してしまうから、まさに泡沫のような儚い一瞬の美といえよう。これはウォーターアートと呼ばれている。この反対に雨の日に道路に浮かび上がるストリートアートというのも、最近話題になっている。これはアスファルトに超撥水性スプレーで文字や絵を描くもので、それが雨が降ったり、水をかけると水を弾いて浮かび上がるというものだ。
 同じような傾向のアートとして、コーヒーアート(ラテ・アート)がある。喫茶店のバリスタ(コーヒーを淹れる職人)が客を楽しませるために考え出したもので、これはエスプレッソの表面に、ミルクピッチャーから出るミルクの流れを操って、バラやハートマークなどを描いて客に出す。飲むのが惜しいような作品もある。
 氷の彫刻なども保存がきかないものだから、いっとき目を楽しませるアートといえよう。これと似たものに、伝統的な和食のお造りなども芸術の域に達しているものがある。まるで生け花のように美しい盛り付けは、コーヒーアート同様、箸で崩すのが惜しい。
 これら一瞬の命のアートは殆どが職人技である。年季とセンスがそれらを生み出している。ほんの束の間の美であるからこそ値打ちがあるのだろう。
 アートというと芸術家の作品で絵画や陶芸のようなものに値打ちをつけたがるものだが、これらの町中アートは、遊びの要素が強く、アイデアから発展して、その技を磨き、アートと言われるほどに人の心や目を楽しませるもので、無償の美と言えるだろう。
 人たちの生活に溶け込んでその中で「うるおい」を与えてくれる「今だけのアート」、豊かな社会であればこそ、こうしたアートが生まれる。遊び心が羽を伸ばせる社会は平和だと思う。

2015.6.16 今そこにある危機 (第1話)
 映画のタイトルではないが、私たちの周囲は危険に満ち溢れている。今回は危機と防災について何回かに分けて考えて見ることにする。
 最初は天変地異の危機について考える。日本はもともと火山・地震・津波といった天災では、世界有数の歴史のある地域なのは周知のとおりだ。
 天災の予測は難しく、火山などの兆候を調べて、警戒レベルを上げたりはするが、それで直ぐに噴火が起きるという訳ではなく、忘れかけるとドカンとくる。間違いないというような予測は立てられないから、結局災害が発生してからの対応が重要ということになる。災害の被害を最小限に食い止めるということが現実的対応となる。
 これは自然の恩恵を受けている国だけに、しっぺ返しのように天災が訪れる。古来より日本人はその両方を受け続けており、災害を甘んじて受けるという強い精神力を持っている。天の配剤に従順だということでもある。
 次は、現在(過去においても)でも人為的な危機と伝染病のような、国境のない危機が進行している事実に目を向けて見る。
 人為的危機とは言うまでもなく、宗教・民族・領土に関する衝突・紛争・戦争の発生のことである。人類は有史以来こうした争いを止めたことは無い。今もどこかで多くの人が戦の中で危険な暮らしを続けている。こうした話は日常細事の論ずる範囲を逸脱しているが、どこにでもある危機について語るイントロと見ていただき、しばらくお付き合い願いたい。次回は国境を超えて飛来するウィルスの脅威について考える。 

2015.6.19 今そこにある危機(第2話)
 今回は飛来するウィルスの危機について考える。日本には存在しない病原菌に侵される危機は防ぎようがない。それは病原菌を運ぶ媒介者が、渡り鳥などのように、季節よって日本に飛来する鳥が持ってくるもので、鳥インフルエンザなどがよく知られている。こうしたウィルスは、変異しやすく鳥から鳥へ、そして鳥から人へと感染する。他の感染ルートとしては交通手段の進歩により、短時間で人が場所を移動することが可能になったことによる。世界中に病原菌に汚染されている地域は多く存在する。そこに旅行した人が感染して、帰国し発病するケースで、これは移動の過程で多くの人にも感染する可能性が高いので始末に悪い。感染から発病まで潜伏期間というのがあるのも感染を広げる原因となる。
 今韓国を脅威に陥れているMARSコロナウィルスは、その典型例である。対処法が見つかっていないこと、死亡率が高いことなどが、恐怖を更に高めることに拍車をかける。毎日ニュースで報道しているが、飛沫感染といわれているが、医療関係者ですら感染してしまうという危険なウィルスである。
 ソウルからプサンへと飛び火しているのを見ても対岸の火事では済まされない。こうした危機はいつでも迫ってくる。ワクチンが開発されているものについては予防対策がとれるが、インフルエンザなどでも毎年院内感染で多くの年寄りが亡くなっている。それだけ目に見えない敵には弱いということである。 昨年夏には代々木の公園でデング熱に罹った人が出て大騒ぎとなったが、これから蚊が息を吹き返す時期になる。下手に藪の中も歩けないのでは、おちおち山歩きなどもできない。防疫の大切さを考えさせられるこの頃だ。次回は町中の危険、交通事故について考える。

2015.6.23  今そこにある危機(第3話)
 今回は路上にある危機について考える。
 警察庁の発表によれば、今年5月末までの交通事故発生件数は220,489件、1日平均1460件であり、死者数は1.606名、一日平均10.6名であり、負傷者数が272,307名、1日平均1,803名とその多さに驚かされる。
 これらの数字はあくまで公表された数字であり、その裏に隠れた事故数や、危機一髪で難を逃れた数字を入れたらどこまで膨れ上がるか知れたものではない。それほどに普段我々が使っている路上が危険に満ちているということである。
 交通事故の大半は車同士の衝突や接触によって起きている。ところが路上(小さな道路)での事故は、人対車(自転車含む)の間で発生する。被害を被るのは無論人である。
 特に最近は、自転車による接触事故が多発している。今や自転車は一人一台位に普及している。子どもから大人まで誰でも乗る。特に電動自転車の普及が目立つ。我が家の周辺は山坂が多いこともその一因と考えられる。問題は自転車走行路にある。大きな道路では、ほとんど人と一緒の歩道を走るのが当たり前のこと。
 従って、人との接触事故が増える。自転車に免許はいらないから、いわば無法地帯と言ってもいい位だ。携帯電話をかけながら走るもの、傘をさして走るもの、イヤホンをつけて走るもの。これらは注意散漫の見本であるが、一番は歩道でのスピードの出し過ぎだろう。時速20キロを超えれば、そう急には止まれない。
 見方を変えれば走る凶器になりかねない。結局歩いている人間の方が注意しなければならなくなる。前方は見えるからいいが、後ろが問題だ。下手に進路を変更しようものなら、きっと危ない目にあう。人の間をすり抜けて走り去る自転車など当たり前の光景だ。
 路上でのハラハラドキドキが日常化している。
 このように、歩くにも気を配るのはしんどいことだが、安全確保の危機管理は自分がするしかない。

2015.6.26 今そこにある危機(第4話)
 今回は段差に目を向けて見ることにしよう。
 段差を埋めるためには一般的には、階段とかスロープを付ける。
 私には何故と思うのだが、一般家庭の玄関口には、必ずと言っていいほど階段を設けていることだ。これは最近の新築家屋でも例外ではない。フラットな方が何かにつけ都合いいと思うのだが。会社や商業施設、学校などは入口はフラットなのが当たり前のように見える。
 昔は道路などのインフラが整わず、水などの被害から避けるため、段差を付けたのは分かる。今は下水道施設や道路も整備されてきているのだからフラットのしてもいいのではないかと思うのだが。 
段差の話しに戻すと、自分の住む家の周囲は段丘に囲まれているので、坂や階段が多く目につく。私が歩くコースにも手摺のない階段が何箇所かある。
 階段で心配なのは、身体のバランスを取ることで、これは年を取れば誰でも感じていると思う。階段の段差でバランスを崩すことがある。転んだことはないが、多くの年寄りが階段で転んで、骨を折ったという話を聞く。
 階段を侮ってはいけない。階段は「そこにある危機」の最たるものであるからだ。よく「まだ若いんだ」と意地になって階段を使う人がいる。その結果転んだりしたら、そうして鍛えた効果など一瞬に消し飛んでしまう。近くにエレベーターやエスカレーターがあれば、それを使うのが一番だ。
 社会の高齢化が進むに連れ、バリアフリーということに関心が集まっている。段差のない住空間を作るということで、どこの家でも、街でもそうなれば、環境は快適化されるのだが。
 そうなると、危機管理というものは、ひとりの力で出来るものではないということが分かってくる。家族や地域社会全体としてこの課題に取り組んでいくことが求められる。

2015.6.30  今そこにある危機(第5話)
 危機シリーズの最終回は「防災」について考えてみる。
 防災は大別して、事態の発生を想定して常に身に付けるようにしているものと、事態が起こった場合に備えて家に備蓄しておくものと2種類ある。
 後者は起こらないに越したことは無いが、昨今の状況は予断を許さない。
 それでは自分が外出するとき常時携帯するものを上げてみる。これはこのコラム2013.11.16語呂合せ(後編)で述べた「筆記具、眼鏡、時計、ハンカチ、パスケース、小物入れ、折り畳み傘、カメラ、キーホルダー、飲料水、ウィンドブレーカー」などである。
 「段差」のところで記したが、できればステッキまたは携帯用のストック(折りたためてリックの脇ポケットなどに収納できる)を付け加えると、なお安全な行動ができる。
 私も普段は荷物が増えるので持ち歩かないが、起伏があり、距離もある大きな公園を訪れる時には、ストックを携えることにしている。転ばぬ先の杖という訳である。歩くときはできるだけ両手をフリーな状態にしておいた方が身のためになる。ということで、長歩きする時はポケットの多い大きめなリックを使うことにしている。小物などを取りやすいように、今の時期なら、上着はポケットの多いサファリジャケットなどを着用するとなお良い。パスケース、財布、携帯などはいつでも取り出せるように上着のポケットに入れておくのが、何かにつけ都合良い。ただ、蓋つきでボタンのかかるものでないと、うっかり下を向くと落っことすことがあるので、その点は気に留めておく必要がある。
 今回は出かける時の防災(危険回避)の留意点に止めたが、防災グッズと呼ばれるものは、ネットを閲覧すればぞろぞろ出てきて数えきれないほどだ。
 最後に一言付け加えると、災害時を生き延びるために必要なもので重要なのは情報である。迅速で正確な情報が得られることで、被災者は確実に安心を得られる。情報の混乱が更なる災厄を招くことは歴史が実証している。「情報の断絶こそ人々の混乱に拍車をかける元凶だ」と言っても言い過ぎではないだろう。