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2015.7.3  変わったことをする

 7月本格的な夏が到来した。梅雨はまだ明けていないが、連日雨が降り続くというほどではない。今年はエルニーニョの年ということで、普段の年と違い集中豪雨型、突然異変型とでも言える荒れる年になった。
 そんな中今年も半分過ぎた。梅雨の最中であるため、散歩を止めて家でパソコン向かう時間が多くなった。いい機会であるので、ホームページの見た目を変える改装に着手した。
 家の障子の張り替えのような作業である。6か月ぐらいでページを追加しないと、ファイルの数が溜まりすぎるので、年の初めと後半に入る7月を改装時期にしている。
 運動不足と引き換えに、頭の体操にもなる。どうも身体か頭のどちらかを動かしていないと落ち着かないのは性分のせいか。
 新進気鋭の哲学者の国分功一郎氏が「暇と退屈の倫理学」の中で面白い記述をしている「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問い」に対して広い視野で多少(大いにか)皮肉っぽく論じている。
 その中身はお読みいただくとして「仕事を離れ何もしない隠居仕事では、生きていけないように人はできている」ようで、その点は共感を覚える。「退屈で死にそう」という言葉がある。そうならないため毎日パソコンに向かうのが「暇つぶし」の生き甲斐とでも言えよう。こうして無い知恵を絞って、あれこれ手先を変えてモノづくり?に打ち込めることを今は喜んでいる。

2015.7.7  文字の成り立ち
 今年から「字源」と言うページを設け、文字の成り立ちを紹介しているが。文字が生まれる段階で6分類することができる。これを六書と言い、中国後漢時代の儒学者・文字学者の許慎(きょしん)の編さんした「説文解字」の序に記されている。日常細事のテーマとしては不似合だが、「字源」の拠りどころでもあるので、少し詳しく紹介する。
 字源で紹介している日・山・月などは象形文字と呼ばれ、物の形をかたどって字形を作っている。
 上・下・末などの文字は、位置と状態といった抽象概念を字形の組み合わせで表現する指事文字と呼ばれる分類に入る。
 時・店・住などの文字は形声文字といい、類型的意味を表す音符と音を表す音符とを組み合わせて作る。
 思・春・私などの文字は、象形と指事によって作られたものを組み合わせて、新しい意味を表す字を作り出したもので会意文字と呼ぶ。
 このほか他の同音、類字音の字を借用する、「わたし」の意味に「我」、「くる」の意味に「来」などを仮借(かしゃ)文字という。
 殆ど見かけない転注文字も用字法のひとつとされているので、合わせて6書となる。象形、指事、形声、会意の文字で構成するのが造字の原理とされている。仮借はすでにある漢字の運用原理として扱われている。
 もう少し加えると、「説文解字」では、象形と指事によって作られたものは、それ以上の要素に分割できないもので、これを「文」と呼ぶ。形声と会意は「文」と「文」を組み合わせることであり、これによって作られたものを「字」と呼んだ。当時「文字」とは文と字からなり、漢字という語は存在しなかったのだそうだ。
 
2015.7.11 趣味百花(1)
 老後の楽しみ方であるが、このコラムでも少し触れたように趣味や習い事でも百花繚乱の感がある。働いている間は時間的余裕がなく、休日にゴルフを楽しむのがせいぜいと言ったところだが、一線を退くと一斉に趣味の世界に走ることになる。
 裏返せば、それだけ企業戦士に自分の生活を楽しむ暇がないという日本の特殊事情もうかがえる。
 私の友人などにも退職後に急に料理教室などに通い始め、奥方に持ち上げられてその気になって、何年も続けて、普段家庭で食する料理は殆どマスターし「俺の味噌汁は絶品だ」などとうそぶいている者もいる。ただし、間に合わせでは出来ず、仕入れから始めなければ収まらないところがダメと奥方に釘を刺されている恐妻家でもある。
 総じて身体を動かす方に興味が向くようで、これは老化を遅らせる上でも効果があり、正しい選択と言えよう。昔仲間とゴルフを楽しんだり、トラッキング(ハイキング)グループに参加して、毎月山歩きを楽しむ者もいる。中には毎日スイミングクラブで泳いでいる、80歳を超えた友人もいる。
 ゴルフなどは金がかかるが「歩こう会」などのような同好会は手軽で、足腰を維持すには良い。私もそういう同好会に所属して近郊のハイキングコースはほぼ歩いた。腰を痛めてからは一人で歩けるウォーキングに転向せざるを得なくなってしまったが。
 健康で暇と金の余裕のある友人は、夫婦であちこち旅行するのが趣味という者もいる。これは羨ましい身分で、残念ながら私には縁がない。
 老後の趣味や道楽といったものは、何かしないと落ち着かないというのがその根幹にある。(続く)

2015.7.15 趣味百花(2)
 仕事を離れ、暇を持て余した人たちは、様々な趣味(道楽)に走ることになる。
 前にも書いたが、それぞれの事情(金銭的状況と健康状態など)で向かうところは違うが、話を聞いてみると、思った通り何もしていない人は稀だ。
 何をするかは人の自由で、例えばパチンコや競馬にと賭け事に毎日を過ごす者などは、麻薬中毒者みたいなもので、負けても負けても止められない。金のことは二の次らしい。頭を駆け巡るエンドルフィン(脳内モルヒネといわれている)が起こす高揚感が堪らないのだという説もある。
 それの比べておとなしい趣味だってある。天気のいい日にキャンバスを抱え、街の片隅で黙々と筆を揮う初老のグループ。何処かの絵画スクールの生徒だろう。陶芸教室に通うものも多い。その手の趣味はどんどん作品が増え、売り物ではないから、家の中をいつの間にかギャラリー化してしまう。きっとあとの始末は大変だろう。
 収集趣味というのもある。ご存知の骨董趣味である。真贋の見分けが最も難しい趣味で、名品というものを手にすることは無い。何百万円払って手に入れた有名な作品が、鑑定結果5千円なんて話は珍しくない。ところが収集家は懲りることなく偽物を買い続ける。トレジャヤーハンターみたいな人種である。
 大体道楽には「反省」の二文字が欠けている。彼らも同様何かに駆られて動いているところに生き甲斐を見出しているのかも知れない。
 今回は身体や指先、眼力などと言った体幹を使う趣味や道楽を取り上げたが、次回は頭を使う趣味を取り上げたい。(続く)

2015.7.18 趣味百花 (3)
 趣味も色々。頭を使う趣味だってある。学生時代は勉強は禄にせず、遊んでばかりいた者が、急に外国語を習い始めたりする。どうやら海外旅行を一層楽しむつもりらしい。主にヒヤリングと会話を習得したいつもりのようだ。大概は途中で挫折したり、実際の役には立たないものだ。大体言葉は幼児のように「習うより慣れろ」で、そう簡単に身につくものではない。そっちの方はツワーガイドなどの専門家に任した方が無難である。沖縄の人と東北の人が方言で会話したら、ほとんど通じ合わないだろう。外国にだって方言(スラング)があるから、推して知るべしである。
 人の趣味に棹差すようなところから始まってしまったが、心機一転無謀なチャレンジをするもよし。
 芭蕉や蕪村の向うを張って、俳句(川柳)や短歌などをうたう人も多い。新聞を見ると、必ず選出された歌が掲載されるページがある。それほど人気がある証拠である。私も「風楽」などと雅号を付けて、時々日常細事に載せる。評価は別として、17文字または31文字(みそひともじ)に自分の感性を表現するのは難しいが、言葉の字数以上の情景描写ができる。人の想像力をかき立てるところが良い。それだけ難しく、奥が深い。
 これは何回も書いてきたが、同世代人にはあまり流行らない(苦手とされる)のがパソコンやスマホなどの電子情報ツールの使いこなしである。若者には必需品の道具が、年寄りには馴染めないのが残念だ。私のように、お年寄り向けの情報発信するものにとっては、対象の目に届きにくいのが一番の障壁になっている。
 月々1万円のコストは見合わないというのが、その理由だろうが「情報」に関しては、オールマイティーの世界に誘ってくれるツールである。私などにとっては、道具(モノ)の筆頭に位置するのだが、その魅力については次回検証する。(続く)

2015.7.21 趣味百花(4)
 電子化された情報の世界にも趣味になるアプリ(ソフトウェア)はいくらでもある。
 例えば囲碁・将棋・麻雀など殆どのゲームはパソコン(PC)でできる。それも対戦型といってインターネットを通じて、人同士で遊べるので、リアルタイムに対戦を楽しむことができる。無論PC相手の対戦もできる。最近のアプリは人工知能が組み込まれていて、相当なレベルにあり、手応え十分である。
 このように一種の仮想空間で遊ぶことができるので、運動が不得意な人間でもサッカーや野球を自分が参加しているような感覚で楽しめる。実際に筋肉を使うわけではないので、身体を鍛えることには結びつかないが、身体が不自由な人にも遊びの世界が開かれていることになり、これからも大きな拡がりを見せていくことだろう。
 趣味百花と題したように、人によって思いもよらないことを趣味にしているものだ。マッチ棒でお城を作ってしまう世界である。
 数多ある中から選び抜いて始めた趣味ゆえに、じっくり時間をかけて、楽しみながら自分のものにしなければ、何とも虚しい。百花というように、せめて花を咲かせるまでは続けよう。自己満足で結構。それは人のためでなく、自分のためにしていることだから。(完)

2015.7.25 心のふるさと(音楽にのせて)
 たまたまテレビの野球観戦のあと、何とはなしにチャンネルをいじっていると、「みんなの歌」という音楽番組をやっていて、その楽の音に耳をひかれた。明治から昭和初期の唱歌を集めたもので、プロの声楽家グループが美しい喉を披露していた。
 聴いていて驚いたことに、どの歌も一緒に唄えるほど記憶に刻まれたものだった。画面の下に歌詞が出ていたので、つくづく見ると実に良く曲に合っており(曲が合わせたのかもしれないが)、心に染み入るように快く耳に響いた。心が洗われるようで、久し振りに清々しい感覚が呼び覚まされた。
 当時の歌詞をよく見ると、小学校の唱歌にしては結構難しいものもある。小学生には理解しがたい言葉が並ぶ。そこで、その一例を示してみる。
 「春高楼のの花の宴 めぐる盃かげさして 千代の松が枝 分けいでて 昔の光いまいずこ」
 これは、作詞土井晩翠、作曲滝廉太郎の「荒城の月」の一節であるが、小学生に酒宴の歌詞、何とも不似合だが、当時は訳の分からないまま一生懸命唄って、すっかり頭に刻み込んだものだ。歌詞と曲がぴったり合って抵抗がなかったからだろう。
 このように後世に残るような歌は、いつ聴いても色褪せず、むしろ心を慰めてくれる。それ故、心のふるさととなるのだろう。
 最後に日本の国歌「君が代」なども、今見直しても難しい歌詞で、英訳などもさっぱり意味をなしていない。和歌を英訳するように難しいのだろう。それでも、重厚で荘重な雰囲気が日本の国民性に合うのか、戦後70年になるが、日本人に唄い続けられている。

2015.7.28 無駄は止められない(前編)
 学生時代に事務処理を効率的に行うポイントは、ムダ、ムリ、ムラを無くすことだと教わった。
 今振り返って見ると、この教えは殆ど守られなかったと思う。特に無駄に関しては、無駄なくして我が人生は語れないぐらいだ。ということは、無駄を省いてしまうと、やることが無くなってしまうぐらいだから、どんな無駄をし続けたか反省してみることにする。
 無駄とは何かというところから始めよう。国語辞典によれば「無駄とは、何をしてもその効果や益がないこと」とある。実際にはどういう表現で示されるのか、同辞典から拾い出してみる。
 無駄遣い、無駄足、無駄金、無駄食い、無駄口、無駄話、無駄飯など数多くの無駄が存在する。
 わが身に照らして、どのような無駄が多かったかというと、言葉の定義にあるものの中では、時間と金の無駄遣いが多かったと言えるだろう。
 一見忙しそうにしているように見えるが、その実無為に過ごしたことになることが多い。例えば、事を始めるにあたり用意周到を心がけ、計画を練るのだが、実際実行段階になると、その殆どが思惑通りにいかないものである。結果として、それまで費やした時間が無駄だったということになる。何も準備しないで事に臨むより、あれやこれやと、思いを巡らして想を練るのも楽しいから、それは無駄かどうかは、実は判定しにくい点ではある。
 なぜ無駄を止められないかは、こんな具合に過程が重要で、結果で無駄かどうか決め込むのは、どうかなという矛盾に陥ってしまうからだ。
(後編に続く)

2015.7.31 無駄は止められない(後編)
 今回は金の無駄遣いについて振り返って見る。
 欲しいと思うとあれこれ迷った後で、結局買ってしまうのが、人の弱さ。私も例外ではない。最近はネット販売を利用することが多く、つい宣伝につられて無駄買いしてしまう。色々なものを購入するのだが、本当に買ってよかったというモノは少ない。つまり無駄買いということになる。
 特にamazonで買い求めた古本は、もっぱら寝床で睡眠薬代わりに読む程度なので読み残しが多く、同じところを何回も読み直すという始末だ。本を漁るのは、若い頃からの癖で、小説それもハードボイルドものが多かったので、読み始めると止まらないところがあった。ところが最近は専門書系が多くなり、読み飛ばすなどという芸当ができなくなった。その結果買い漁り癖だけは抜けず、読み終わらない本が山を築くということになってしまった。多分だが、一生かけても読破できない本が残ることになるだろう。ホント何時になったら始末する気になるのやら。これも投資に見合わない無駄遣いということになる。
 それでは、開き直って考えてみよう。
 世の中から無駄という無駄を省いてしまったらどうなるだろう。経済的で住み良い社会になるかと言えば、そうでもないと思う。何をもって無駄とするかの定義付けが難しいからだ。
 一見無駄に見えても「遊び」のようなものは、世の中から無くしてしまうと、味気の無い窮屈な世界になってしまうに違いない。
 無駄なようでいて、世の中に潤いを与えるものを「無用の用」と言うが、無駄の中に僅かでも生活に生かされるものがあれば、それは大切に守ると自分に言い訳している。