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2015.9.3 ケース・箱(mono)
 メガネを家中あちこちに置いて使い分けているという話をこの中でも以前したが、メガネにケースは付きものだ。これはメガネを守るために必要だからで、メガネの数だけケースがあることになる。大小取り混ぜ、ハードケースあり、ソフトケースあり、万年筆型小型ケースありと多様である。この他にメガネスタンドなどもあるから、やたらと目につく存在となる。他に使いようがないのも始末が悪い。
 ケースはメガネだけのものではない。見渡してみても、薬を入れるピルケース、多色水彩ペンを入れる筆入れ、ケース付書籍といくらでもある。
 ケースというモノは、実際に使うものを収納するためのもので、脇役の存在である。にも拘らず本体を隠し込んでいるので、恰も主役のような顔をして居座っている。
 次は箱であるが、最近は通販でモノを購入するので、配達は宅配便になる。よく店買いなどでは「シールでいいですよ」などと余計な包装を断るが、宅配便はそうはいかない。小さいものでも段ボールに入れて送って来る。開梱したら即資源ごみへと処分してしまう。お中元やお歳暮で送られてくる贈答品の化粧箱や缶には、物入れとして再利用できるものも少なくない。中には容器に人気があるものさえある。中身は一時のものだが、箱や缶は何年も使い続けられることになる。
 一方、箱で始末に困るのがパソコン関係の箱である。初期不良などで返品も考えて、保証期間(大抵1年間)は残しておく。それがいつの間にか何年も居着いてしまう。これがまた場所を占拠する元凶となる。他に使いようのない代物だから、これまた始末に困る。本体が廃棄されても残っている豪のモノすらある。
 別に処分しても問題ないのだが、そういうのに限って置き場所が奥の方にあり、探り出すのが面倒臭く、ほっとくことになる。毎度の話、始末できない人間が一番始末に負えないのかもしれない。

2015.9.7 食は秋に限る
 さんま、さんま さんま苦いか塩っぱいか。
そが上に熱き涙をしたたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ げにそは間はまほしくおかし。
 この一節は佐藤春夫「秋刀魚の歌」の最終節である。私と同世代なら、誰もが一度は耳にした歌である。
 この歌の意図とは関係なく、さんまは「秋刀魚」と書くくらいだから、秋を代表する味覚であることは間違いない。他にも秋に出回る食として人気のあるのが、昨年の「秋の味覚ランキング(ドゥ・ハウス)」によると、次のような食物である。
 筆頭は、やはり「さんま」(53.2%)次いで「栗」(43.2%)「松茸」(30.9%)「柿」(26.6%)「梨」(26.2%)「新米」(16.6%)「さつまいも」(14.4%)「松茸以外のきのこ」(11.3%)「鮭」(7.8%)「銀杏」(7.1%)となっている。
 どれも(松茸除き)庶民の手に届く食物ばかりだ。今年の秋中には全種類口に入りそうな気がする。
 ちなみに、私は魚嫌いで、さんまの焼き物も2つに切り分けた尻尾の方しか食べない。上の方は内臓があるし、小骨が多いので苦手だ。鮭は焼いた塩鮭をほぐして握り飯にしたものは、弁当で始終口にする。これは旬とは関係ない。
 栗は好きである。特に茹でた丹波栗の大粒のものは、ホクホクして美味しい。「クリより美味い13里」として知られるさつまいもは、栗に劣る。これは幼少時に甘藷で糊口を凌いだ時期があったトラウマか。栗ご飯もやがて食膳に供されると期待している。例外にあげた松茸は「松茸ご飯」として1回ぐらいは賞味できるかもしれない。しめじなどはよく食卓に出るが、味しめじというほどには私は好きではない。
 果物は、柿と梨があるが、両方とも好きだが、梨それも20世紀梨のあの瑞々しい姿と水分十分な甘い果汁がたまらない。最後に挙げられている「銀杏(ぎんなん」だが、今はまだその時期ではなく、あの強烈な果肉の匂いとは違い、実の部分はおでんによし、焼いてよし、噛み心地もまたよい。
 秋は始まったばかり、秋の味覚を実感するのはまだ先だ。

2015.9.11 クリーンナップ(mono)
 野球で3番から5番までの打順をクリーンナップと呼ぶ。何故かと言うと、この打順で塁上の走者を生還させることが期待できるからだ。米国野球では4番打者のみをそう呼ぶということだ。クリーンナップの意味は大辞林によれば「きれいにすること、清掃、一掃、浄化」と幅広く使われる用語である。このページを読まれている方は、パソコンを使われておられることだろうから、多分定期的にディスクのクリーンアップ(クリーンナップ)を行っていると思う。これはパソコンの機能を維持するためには必要な作業で、ハードディスク内の一時ファイルやゴミ箱の中身などを消去して、ディスクの空き容量を維持するために標準装備されている機能である。
 ちなみに、どのように行うか説明する。コントロールパネルを開き管理ツールを選択する。そこにディスククリーンアップという項目がある。これをクリックすると、空き容量の計算を始める。少し待たされるが、それが済むと、空き容量が出る項目のリストが表示される。ダウンロードされたプログラムファイルやインターネット一時ファイルなどが多く容量(リソースという)を使うので、そこにチェックマークを入れ「OK」をクリックすると掃除が始まる。パソコンをより快適に使うにはこういう作業を欠かすことはできない。
 前置きが長くなったが、これからが本論。家の中のモノでなかなかクリーンナップできないものを探ってみた。色々なモノがあるが、気のついたモノをあげてみる。まずチューブに入った歯磨き粉をあげると、これは最初のうちは滑らかに出てくるが、残り少なくなると出にくくなる。出口の頭の円形部分が硬いため、その辺に残ったものを搾り出すのに苦労する。ペンチなどで潰して無理に押し出したりして使い切ることになる。薬のチューブ入りも同様で残りが気になる。
 意外とそんなことが気になる質で、根がケチなのか、拘る性質なのかわからないが、変なところが気になるものだ。
 こうしたちょっと残った中身をクリーンナップする手立てや、アイデアがあれば知りたいものだ。

2015.9.15 十五夜(名月)
 私の子どもの頃は木造家屋の殆どに縁側があり、更に濡れ縁と言って 雨戸の敷居の外側に設けられた雨ざらしの縁側があった。その前には小さな庭があって、そこで焚き火をしたり、正月には餅つきをするなどの、ユーティリティーな場所として使われていた。
 十五夜は年中行事の大きな祝い事の一つで、この日(2015年は9月27日)には、この濡れ縁に白木の三方を置き、芋、団子、枝豆、栗の茹でたものなどを山盛りにし、脇には、酒壺のような形をした花瓶にススキの穂(本来は稲穂)を飾って、満月の月を愛でる習慣があった。
 子どもたちにとっては「花より団子で」お下がりの供物を分け与えられて食べることが出来るのが一番の楽しみだった。じっくり月を眺めて、一句を読むなどという風流とは程遠いものであった。歳時記には名月を詠んだ名句があるので紹介しておこう。松尾芭蕉は「名月や池をめぐりて夜もすがら」、小林一茶は「名月を取ってくれろと泣く子かな」
 こうした風習はわが町のような住宅密集地では見ることがなくなってしまった。地方ではまだ多くの所で十五夜を祝う慣習は残っていると思う。収穫を神に感謝する行事であるので、農村地区では現在でも祝い事をするとは思うが、収穫間際の2,3日前に大雨が降り、大洪水があった茨城、栃木、宮城などは、ゆっくりと祝えない状態なのは痛ましいことだ。
 十五夜について、少し調べてみると(日本の年中行事事典:吉川弘文館)「十五夜は月見、芋名月、栗名月、豆名月などとも呼ばれ、秋の収穫を祝う行事であった。併せて満月を鑑賞するという風流な行事で、古来中国では、この夜を秋の中心という意味で「中秋」といい、名月を愛でる中秋節が行われた。日本にも奈良時代に伝来して宮中で行事が行われた」という記述がある。
 もし今年の十五夜が晴天で満月を観ることができるなら、集合住宅ののベランダから団子抜きでじっくりと鑑賞することにしよう。

 2015.9.18 IDとパスワード
 パソコンを使う人の殆どがインターネットを利用していることと思う。インターネット上で行われるやりとりは非常に多岐にわたる。メールを筆頭に、通販、ダウンロードなど大概のことはネットで済ませることができると考えてよい。
 最大の手間は自分をどのように認識させるかということで、これに使うのがIDとパスワードの組み合わせである。銀行のキャッシュディスペンサーをイメージしてもらえばよい。カードがIDで暗証番号がパスワードということになる。
 この2組がセットになって初めて認証が行われ、アクセスが可能となる仕組みになっている。
 私の場合、メール一つ見ても6つほどのアドレスを持っている。これらの設定は自らやる他はなく、使っているメーラー(メールソフト)の種類により設定を変えなければならないので、結構難しく、うまく設定できないこともある。それぞれのIDとパスワードの組み合わせも変えなければならず、設定した後どれがどのパスワードを使っているか忘れることがしばしばある。物品購入の時には、必ずメールの登録が必要なので、どのメールを登録したか覚えを残しておく必要がある。積もり積もっていまでは登録されているインターネット利用リストは70を超えている。リストはいつでも使えるようにセルロイドケースに入れ両面見えるようにして、手元に置いてある。これを無くしたら大ごとになる。個人情報の固まりのようなものだから人には見せられない。その割に管理はずさんである。それは年中参照しなければならないところにある。
 このようにネット社会で生活するということは、面倒でセキュリティを守るのが難しい。情報は漏えいするものと考えた方がよい。迷惑メールやウィルスメールは年中送られてくる。どこかで自分のアドレスが漏れているからである。
 これからマイナンバー制が導入されたら、否応もなくネット社会に引き込まれることになる。この安全性など無きに等しいと考えた方がよろしい。ネット社会の現状はそれほどセキュリティー管理に穴が多く存在しているということだ。

2015.9.22 秋を想う(1)
 このコラムは敬老の日(21日)に記した。ちょうどシルバーウィークの真っ只中、秋分の日で終わる5連休中である。
 幸い天気にも恵まれ行楽地は多くの人で賑わっている。本格的に秋となった。このコラムでも「食は秋に限る」と「十五夜」で秋の風物誌を取り上げてきた。
 今回は自然の変化の中でも最も人の感性に訴える「秋の現象」について観察してみた。
 早朝散歩に出かけると道端の草に露の玉を見かけるようになった。「露の玉走りて残す小粒かな(川端茅舎)」露は秋の季語である。二十四節気では、白露(9月8日秋分までの期間。処暑から数えて15日目頃。この日から仲秋になる)、秋分(昼と夜の長さの等しい日が一年に春・秋二回ある、その秋の方の日。陽暦九月二十三日ごろ。秋の彼岸の中日)、寒露(10月9日晩夏から初秋にかけて野草に宿る冷たい露のこと。 秋の長雨が終わり、本格的な秋の始まりになる)というように、秋を代表する自然の分岐点といえよう。
 露がどうしてできるかについては「露とは空気中に含まれている水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴になったもの(ウィキペディア)」とある。
 また、露は秋を演出する存在で、文章などでも「晩秋の冷たい露が地に低くよどんで、空は紺青に澄んだ美しい宵(円地文子/朱を奪うもの)」のように秋の風景を描写するのによく使われる。
 この秋の風情をよく表す言葉は「露」だけでなく「空」「風」なども風物詩を語るには欠かせない言葉、順次紹介していきたいと考えている。

2015.9.25 秋を想う(2)
 今回は秋の空と風をテーマに観察する。
シルバーウィークは天気に恵まれた。これほど長く天気が続くのは珍しいことなのだそうだ。これも最近の異常気象のせいなのか。これ以上好天が続くとは期待もしないが、紺青の秋空の下外出できることは、まさに天の恵みと言うほかない。
 空には箒で掃いたような筋雲が秋らしさを演出している。そこで夕陽に茜色に染まる様を「秋の空 茜に染まる 筋の雲(風楽)」と表現してみた。秋の雲はすじ雲の他にもその形から、うろこ雲、さば雲、いわし雲などと呼ばれる「巻積雲」に属する雲もある。これらは上層雲と呼ばれ、5000メートル以上もの上空に湧く雲である。従ってこういう雲が見られるのは天気がよい日である。
 秋の空は移りやすいということは昔から「女心と秋の空(男心という説もあり、私はその説に賛同)」と言われるほど変わりやすい。冒頭に、珍しく好天が続いたと書いたが、秋は雨の日が非常に多いのだそうだ。秋の長雨は梅雨のように降り続くので秋梅雨(あきついり)などとも呼ばれるほどだ。
 一方、風薫る秋というように、小道を散歩していると、どこからともなく甘い香りが漂ってくる。匂いを辿って周りを見渡すと、オレンジ色の花をいっぱい咲かせた金木犀が見つかった。この香りはここから発しているようだ。沈丁花も香りが強いが、それに劣らない秋の香りを代表する木であろう。
 私のホームページのサブタイトルは、風を楽しむである。風は色々な香りや音を運んでくれる。最近急に蝉の声が聞かれなくなった。それに代わって秋の夜長を楽しむかのように澄んだ虫の声を風が運んでくれる。町を歩いていて香りを楽しみ、秋の澄んだ空気の中で虫の声を聞く。なんと風情のある季節であることか。

 

2015.9.28  門外漢のタメ口
 世の中に専門家と呼ばれたり、称する人が多く存在する。それぞれが独自の分野でその知識や技術を磨いた結果、功成り名遂げるに至った人たちばかりだ。毎日そういう人とお目にかかっている。無論直接ではなくテレビを介してであり、面識など丸でない雲上のお方たちである。
 私自身は、結構今は暇な身分なので、報道番組などはよく観ている。そこでその分野の専門家の話を拝聴することとなる。
 不思議に思うのは、同じ分野の専門家なのに、全く意見が異なるシーンに出会う。独自の分野を拓いた人だけに妥協という言葉が辞書にないくらい、見解の相違とか視点の違いが明確に出る。特に評論家と言われる人に政治や経済の意見を戦わせると、白といえば他方は黒とやり返す。囲碁の世界では黒白はっきり勝ち負けで決着する。ところが論争となると、決着がつかない。背後にはテレビ局の演出も見え隠れするが、24時間続けても纏まりを見ない。出演者の経歴を見ると、概ね学者(大学教授クラス)かシンクタンクの上級職員の肩書が多く、自分の考えに絶対的自信を持っている(ようにみえる)。我々は外野席からそのバトルを観ているわけだ。どちらもこれが正論だと声高に唱える、双方意見が噛み合わないから、結局門外漢である観ている側は、蚊帳の外に置かれた感じとなる。もっとも世論調査などを見ても大体四分六といったところに落ち着くから、外野席も似た物同士の関係にあるのかもかもしれないが。元々シャンシャンなど望んでもいないが、どこかに落としどころを見つけるのが大人の仕事だと思う、こんな姿を見せつけると、きっと子どもたちも呆れることだろう。
 そもそも先生方は自説を堂々と披露するが、発言に関する一切の責任は問われないようだ。彼らの一件落着とは発言する機会にあり、機会さえ与えれば何度でも顔を出し、平行する議論を繰り返す。
 ご気楽な身分とみえる彼らの唯一の弱点は個人的なスキャンダルで、それで出場機会を失うことになる。元々一般人とは違う象牙の塔の中で育った人種なので、そういうところに脆さを見る。今回は専門家になれないヤッカミから、タメ口をたたかせてもらった。