kiji

2015.6.5 生活六考(労)
 先ず労働の質について考えてみよう。
人は職という名の形で就労する。生まれた環境や、持って生まれた才能が伸ばされる機会に恵まれた人は、家業を継いだり、芸術の道に進むことになる。
 しかし、大半の人は企業に就職したり、公務員になったりする。
 私なども特別な才能や技術があるわけではなく、なんとなく公務員になった。
 これを労働の質という観点で見ると、特に専門性もなく、普通に真面目に仕事をしていれば、毎日は平穏に過ごしていくことができるものであって、好き嫌いを言える身分でもない。違った分野に転勤させられるのは当たり前の世界だ。無事定年まで勤め上げ、人並みの生活もできた。
 労働は対価のためにあるといっても過言ではない。 普通の人の「労」とは、このように、生活の一手段とも言えるだろう。
 ある意気込みと目的を持って仕事を始める起業家という人も最近は多く見ることができる。これらの仕事はハイリスク・ハイリターンで失敗の確率が非常に高い。高い志を持って始めるのもいいが「出る杭は打たれる」の喩にあるように足を引っ張るものも多い。
 こうしたこともあり、高学歴者は未だに職場として大企業や官庁志向が根強い。そこに就職すれば高い報酬とやりがいのある仕事が待っていると信じているのだろう。その結果豊かな生活を享受できる者も多いのは確かだ。
 これで完結してしまうと、人生それほど面白いものとは見えなくなる。
 情報化とかイノベーションと言われて、従来型の労働環境が、少しづつ変わってきている。質の変化である。都会一極集中から、Uターン、Iターンといった地方への労働力拡散の動きが出てきているのは喜ばしいことだ。
 とは言いながら、基盤的には弱い仕事なので生き残りが難しいのも事実。折角出始めた芽を、国や自治体の力と知恵で、多様で安定的労働環境が定着することに期待するとしよう。


 
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