疎開(終戦まで)
戦時中まだ小学校に上がる前に、横浜は空襲の危険があるというので、三重県の片田舎の母の生家に疎開することになった。子どもの頃の記憶はこの辺から蘇る。最初に記憶は機関車のデッキ、生まれて初めての汽車の旅(?)である。何もそれからの厳しい生活の訪れなど夢想もせず、ただ汽車に乗れるというだけで、はしゃいでいた。機関車の油煙の臭いだけが思い出される。
次は田舎の光景。これだけは鮮明に思い出すので筆が進む。ひなびた駅舎を出ると直ぐに高度50メートルの大きな橋があった。そのころから高所恐怖症だったのか、下を見下ろして足がすくんだのを覚えている。周囲は大きな森に囲まれている。ここは林業の村であった。
少し行くと大きな森に行き当たる。ここは通称宮の森と呼ばれ、樹齢数百年以上の杉の木の壮大な森林であった。この森には由緒ある神社があり、伊勢神宮の別宮という話で、規模は小さいが、造りも伊勢神宮の原型だと伝えられている社だった。
杉林の中、玉砂利の道を灯籠を目印に歩いて行くと本宮に行き着く。本殿の両脇には太郎杉、次郎杉という2本の樹齢300年以上と言われる巨木がひときわ目立つ。大の大人が6人ぐらいで手をつないで囲むほどの太さであった。この太郎杉については後に逸話がある。
この森を通り抜けた所に疎開先の家があった。平屋の瓦葺の農家で、便所と風呂(五右衛門風呂)と井戸は母屋とは別に建っていたのを覚えている。何故か庭の一角を露天掘りにして屋根を被せ、防空壕が作られていた。祖母はそこを自分の居間にしていた。私の印象では祖母は鬼婆その物の存在だった。優しさなどは微塵もなく、年中小言を言っており、怖い存在だった。母とは親子というには程遠い存在だったから、母は苦労したと思う。私は人のことをどうこう言うのは少ないが、このばおばあさんだけは例外だ。幼い子供ども心にも、そんな印象しかないのだから、相当嫌な思いをしたのだと思う。
のっけから厳しい生活が待っていたわけである。戦争とは残酷なもので、そんな人たちが大半だったのだからひどい時代ではあった。
食生活が一番悲惨で、一汁一菜などは贅沢な部類で、毎日が芋粥で米粒はなく、芋も沖縄という銘柄で、大きいだけで今では家畜の飼料にもならない代物だった。飢えは毎日のことで、子どもは皆やせ細っていた。飢え故にこの時代の印象が強烈に残っているのかもしれない。物は極端に不足し、なんでも配給制であった。向かいの家が配給所で行列したのを覚えいている。こんな物価統制は戦後も続いたから、少年期は飢餓の時代と言っても過言ではない。
それでもまったく厳しいだけの生活ではなく、子どもには子どもの世界があり、地元の子たちは皆素朴で優しかった。よく近くの川で遊んでもらったのを覚えている。
そんな川遊びをしている時、突然戦闘機(ゼロ戦かも知れない)が低空で飛来し、操縦士が子どもたちに手を振って飛び去って行ったのを鮮やかに思い出す。四日市に航空隊があり、そこから飛び立ったものだろう。
その後日、上空でグラマンとの空中戦を目撃した。その戦闘機かは定かでないが、その戦いで米軍機が撃墜されたという噂だった。
日本の戦闘機を見たのはそれが最後で、それからは連日B29の編隊が群れを成して東京方面に向かうのを見ることになる。それが4月頃で、その頃東京や横浜では連日B29が襲来し、空襲が繰り返されていたというのは戦後に知った。
一つ戦争の記憶ではっきりしているのは、その頃何とはなしに森の方を見ていると、突如天から魚雷のようなものが降ってきて、次の瞬間神社の方で大きな黒煙が立ち上った。そしてドカーンという音。慌てて地面に伏せたのは子どもでもそう教えられていたからだろう。2キロぐらい離れているのに、家の瓦屋根の一つが割れ、そこに鉄片が落ちていた。爆弾の破片が飛んできたのだろう。それほど凄まじいものであった。たった1発の爆弾だが、後で知ったことだが、確実に神社の本殿を狙ったもので、正確に落ちたが、本殿には当たらず、隣の太郎杉の大木を吹き飛ばした。直径2~3メートルある杉の大木の根元から5メートルぐらい先から無くなっているのを後で目にした。飛んできた鉄片を宝物のように大事に隠し持っていたのを何故か思い出す。 そして間もなく戦争は終わり、私の戦中体験も終わり、その後どう家に帰って、家族がひとつなったのかについては何故か思い出すことができない。