コラムの生活六考を少し進めて、発想・空想・妄想について整理してみる。
三者ともそれほど明確な境界線を引くことはできないのだが、自分なりに仕分けると、こうなる。
発想はその考えに実現性が高く、形として生み出すことができる。空想は「もし宝くじが当たったらこうしよう」というように極めて実現性の低い「夢(Dream)」その物である。妄想となると、想いにかなり邪な部分が含まれ、被害妄想のように、ありもないことに対して、恰も現実にあるものとして同一視してしまう傾向が強い。
これらの共通点は想像から発している。バーチャル(虚構)な世界であるので、小説などでは三者は共存できる。
私もホームページのポケットを埋めるために、あれやこれやと想像を巡らせ、糸口を求める。糸口が見つかれば、それを手繰って行き形として作り上げることになる。この段階ではこの3つの想が切り離された形として表現されている段階にはならない。糸口をつかむということは一つ進展をみたことにはなる。人の評価は別として、現実的で分かり易いように仕上げていくのが、ここからの作業である。特に「記録」のポケットは、時間に迫られる心配はない。慎重に言葉を選び、字数の制限もないので、じっくりの考えをまとめていく。
「この話はどのように仕上げようか」などと、自問自答する状態が続く。
実のところ、このじりじりした時間の流れの中に身を置くことが、意外と充実感を伴う。よく言うではないですか「釣り人は魚が欲しいのではなく、じっと浮きを眺めて当たりがくるのを待つ、ぐいと手応えを感じた時がたまらない」と。それ似た感覚が作品の作成過程にあり、それが刺激を与えてくれる。
一話完結すると一瞬ほっとする。そのために毎日のように「生みの苦しみ」味わっていることになる。
話を戻して発想と空想との強い関連性について、例を示して説明しよう。
これはつい最近報道番組で紹介されたものだが、開発から完成に至るまでの過程で、夢に描いたものがいかに実現できたかという物語である。
一人の技術者が、一輪の電動自転車が作れないかという発想に始まる。そこで、彼は企業をスピンアウトして起業する。すでに電動自転車はかなり普及段階に入っていたはずだから、出資者を見つけるのは大変だったと思うが、夢の実現に向けて走り出す。テレビでどうにか実用段階に入った電動一輪車をキャスターが操作している姿が写っていた。ということは誰でも運転できる段階に入っていることがわかる。それまで10年かかったという。
この一輪車の最大の特徴はタイヤにある。フォークリフトのタイヤのように太い。安定性を保つのに欠かせない条件だからだろう。これは「コロンブスの卵」ではないが、簡単そうで踏み切るには大胆さがいることだと思う。まだ公道を走ることは認可されちないようだが、そのうちあちこちで走り回ることだろう。
このように「あったらいいな」から「ありますよ」に変えるのが、空想から発想へ、そして実現への道筋となる。空想の世界を実体験できるのは、スリリングで楽しい。それはディズニーランドやUSJの混雑ぶりを見ればわかることだ。
年金生活で、毎日が退屈だと嘆く人は、少し空想の世界に入り、ほんの少しそれを実現してみるといい。私の知る人に80歳近くになって、変装して街を歩くという変人がいたが、そうして見る世界は刺激的だったと語っているのを思い出した。