少年期2(小学生時代)
横浜に戻って最初に驚いたのは、その荒廃ぶりだった。街の中心部は殆ど消失しており、焼け野原になっており、所々に焼け残ったトタンを集めて建てたバラックがあるだけの、ゴーストタウンさながらの風景を目にすることになった。その中をアメリカ軍のジープや幌をつけたトラックの走り回る姿だった。西部劇に例えれば、馬であり幌馬車であった。横浜は完全に米軍の占領下に置かれていた。
アメリカが日本を攻撃する際に残すべきものは残しておいた。それが後にマッカーサーの宿舎となった。ニューグランドホテルである。後で知ったことだが、それほどピンポイントで攻撃する地図を持っていたということだ。今も昔も戦争は情報戦に勝ったものが制するということのようだ。
初めて GI(アメリカ軍人の俗称)を見て驚いたのは、その巨大な体格であった。成人男性で20センチは背が高かった。黒人兵を見たのも初めてだった。そうした外人を一種畏敬の念で見ていたものだ。
占領下の城下町のような横浜はアメリカ兵の天下で、さながら斬り捨て御免のような特権を持って街を闊歩していた。富める国と最貧国の国とではこれほど違うということを、如実に示す場所がわが町横浜だった。
これは今にして言えることだが、当時は米兵が小学校にジープで乗り付け、校庭で子どもたちを集め、キャンディーをばら撒いて子どもたちが奪い合うのを見て喜んでいた。こんな光景は今の子には想像もできないことだろうが、当時の子どもたちはジープを見かけると、ギブミーチョコレートギブミーチューインガムと叫びながら、ジープの後を追っかける姿が当たり前だった。大人も子どもも極限の飢餓の状態にあったから、誇りなどという感情は飢えには勝てなかったということを実証していた。
終戦直後の教育は何を教えればいいのか、混乱の極みにあり、教科書も定まっておらず、お古の教科書が使えないから、仮のもので新聞紙のタブロイド版で粗悪な材質でできた、絵や図などもなく、何枚か重ねて二つ折りにし、鳩目で止めて代用したものだった。帳面も鉛筆も不足しており、あれでよく教育できたと思う。男の先生は少なく、私は6年間女性教師に学んだ。
従って、学校で習ったのは、音楽と図画そして先生の聞かせてくれ話しか記憶にない。
先日のクラス会(中学の)で、小学校で同じクラスだった女性から卒業文集の写しを貰うことができた。先生全員とクラス全員の卒業に向けての作文集である。これは生徒が交代でガリ版を切り、真っ黒になってプリントした手製の文集である。イメージとしては色が黒一色のプリントゴッコと考えてもらえばよい。
自分では記憶にも残っていない文集であったが、読み返して意外だったのは、生活苦や飢えに関する記事は見当たらず、将来の希望に満ち溢れるものばかりだった。
文集の中で、担任の先生が一人一人の教え子に言葉を残していた。さすがに的確にその子の個性を掴んでおり、優しさに満ちていた。相当の悪ガキもいたはずだが、みんなイイ子になっていた。
私については「絵が上手で、大山の山登りの時は大変だったですね」と書いてあった。これは何の話か補足すると、唯一成績が優を保ったのが図画だった。その他は並であり、将来は絵描きになろうと思っていた(今頃になってその願いに近い創作活動を楽しんでいる)。大山の話は、大山は階段ばかり続く登山道で、途中でこむろ返りを起こして動けなくなってしまい、結局先生に背負われて下山するという苦い思い出だ。こむろ返りは癖になるようで、以来海での水泳は背の立つところ以上には行けなくなってしまい、泳ぎも嫌いになってしまったという、トラウマさえも残すことになった。
ガリガリに痩せたちび助だった私の小学校時代は、このようなものだった。勉強などせず年中近くの野原で遊んで過ごした。近くに小山もあり、一面の麦畑もあった。今は大きな市営住宅が立ち並び面影はひとかけらもない。小山は今でも残っているが、今の子どもはそういう場所には立ち入らない。小山の斜面は子どもたちのテリトリーで、当時映画で人気のあったターザンを真似た「ターザンごっこ」が流行っていた。山(丘)の中頃の空き地に雑草と枯れ木、竹などを組んで小屋をつくり、そこを拠点に、山に入り木の枝から長く吊り下がった蔦の太いつるにぶら下がり、振り子のように反動で行ったり来たりする遊びに熱中したものだ。したがって、年中生傷が絶えず、赤チンの跡が消えることはなかった。
学校が終わり、家に帰りつくやいなや、そうした遊びで日暮れまで過ごし、貧しい夕飯を食らう。疲れ果てすぐ眠り込んでしまうので勉強する暇などなかった。年中「勉強しなさい」と言われ続けていた覚えがある。 今にして思えば、遊び道具などなくても子どもたちは自分たちで遊びを見つけるものだ。生傷の絶えない、いつも腹を空かしていた小学生時代だった。