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 私の戦後70年 少年期4

昭和29年に中学を卒業し、近くの市立高校に進んだ。中学時代の弱虫返上とばかり、部活は柔道部に入った。クラスは進学コースだった。部活は毎日あり、家に帰ると体力は使い果たしており、勉強に入れる力は残っていなかった。大体柔道部はいかつい男が多く、私のように40キロそこそこのチビは格好の練習台。投げ放題、抑え放題と相手のモニベーションづくりに大いに貢献したものだ。得たものは、受け身が条件反射のように身についたぐらいだ。
 クラブ仲間で仲良しが数人でき、卒業後も始終付き合っていたが、二人が早世してしまい、この段階で夜遊びは終わったという後日談もある。
 高校2年の初めに父が亡くなった。55歳、早過ぎる死であった。大黒柱の死は家族にとっても大損失で、後の家族に大きな影を落とすことになった。世間はようやく日が差し始めた回復期にある中、我が家は落日を迎えていた。
 多感な少年時代、初めての挫折を経験した。大学進学の望みは絶たれ就職への道を選ばざるを得なかった。自分の人生設計などできる前に、友達は大学に進み、私は取り残されたという感じばかり強く、自暴自棄な状況に陥り、前向きに人生に立ち向かう気力などなかったと、今にして思う。
 近所の人の紹介で米軍の施設に作業員として就職できた。日本の職務システムとはまるで違う、職能給で、年齢に関係なく同一賃金で、想像もできない高額なものだった。当時の大卒賃金が8000円ぐらいの時20,000円貰えたのだから。日米の賃金格差の大きさは想像を絶していた。我々を監督していた日系二世のシビリアン(民間人軍属)の給料は、優に30万円を超えていたから、彼らは垂涎の的の生活を享受していた。こうした生活振りを目のあたりにすれば、日本人が追いつけ追い越せを目標に掲げたのは当然であった。現に日本はその目標を達したのだから、世界が刮目したことも頷ける。
 そんな甘い生活が長く続く筈もなく、1年数ヶ月で人員整理に合って呆気なく終わってしまった。当時の解雇にはルールがあり、新しく入った順に整理されることになっていた。そうして簡単に職を失うことになってしまった。思い返すと当時の方が社会保障はよかったようで、給料に比例して失業保険が支給された。
 ここで昭和34年の世相を見てみよう。
 1月1日 メートル法が施行された。当初は度量尺貫法と混ざって苦労したのを覚えている。
 1月14日 第三次南極探検隊が基地に置き去りにしたカラフト犬のタローとジローの無事が確認された。その後映画化され大ヒットした。
 2月8日 黒部トンネルが開通。 欅平から、黒四ダム建設現場迄の資材運搬用のトロッコ電車が完全通行可能になった。
 4月10日 皇太子(平成天皇)成婚式。民間家系正田家からの嫁入りとあり世間の話題を独占した。
 5月26日 第18回オリンピックが東京に決まった。日本の戦後復興が本格的軌道に乗った。
 7月2日 日本テレビが巨人対大洋(今の横浜ベイスターズ)戦を初のカラーでナイター中継した。
 9月26日 伊勢湾台風(人的被害は、紀伊半島の和歌山県、奈良県、伊勢湾沿岸の三重県、愛知県、日本アルプス寄りの岐阜県を中心に犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)・負傷者38,921人にのぼり、さらにほぼ全国に及んだ経済的被害は破格の規模となり、明治維新以来最大の被害を出した台風)
 11月1日 国民年金制度発足。その後、1985年(昭和60年)の年金制度改正により、基礎年金制度が導入され、現在の年金制度の骨格ができた。
 話を戻すと、失業保険はかなり高額で、これを機会に勉強する時間を得るため、職業訓練所に入所した。学習期間中は保険が継続支給されるので、食い扶持には困らなかった。英語事務という専攻過程をとり、基礎英語からタイプまで実務的な英語学習ができた。今は事務系の訓練校があるか分からないが、技術校と名前が変わったと聞いている。
 6か月間の訓練期間を終え、再就職した。職場は東京の真ん中、国会議事堂近くの広告代理店だった。テレビ広告が主体だったので、多くのタレントが出入りし、面白い職場だった。職場に働く人は、皆高学歴で優秀だった。ここでまた学歴ギャップを感じ、翌年夜間の経営学専門の短期大学に入った。当時としてはユニークな教育をすることで有名な実践的学問の習得場所であった。男ばかりの学生数が少なく、かつ大学卒業後に入ってくるものが多い珍しい学校だった。3年制で単位数は4大卒と変わらないぐらい多かった(現在は女子短大のようになってしまったが)。
 昼間働き、夜学校に通うというのは、結構きつく、まして生き馬の目を抜くような広告代理店の仕事は、面白かったが学校に通うのには無理が多かった。学業を全うさせるには他の職業に変える必要があった。当時は景気も良く就職難の時代ではなかった。今は人気の公務員も給料が安く、人気が低かった。そこで、職場を離れ、半年ほど受験勉強に打ち込んだ。そして、試験を受けたら運よく合格した。それから長い公務員生活に入ることになる。時代は昭和38年夏の話である。回り道の多い少年時代ではあった。
 
 

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