2017.1.20 わが町₍地域生活(3₎
いよいよ本テーマの締めくくりに入る。
今回は現在自分が住んでいる町であるが、それは(1)でも記した通りであるので、この場所の歴史的背景などについて述べてみたい。
その前に地域への意識について、どう考えているかというと、私は日本人で日本が好きである。戦後の一時期生活が窮乏しているときは「アメリカ人だったらいいな」と思ったこともあった。だが今の日本は世界で一番住みよい国かもしれない(特に私のように高齢者にとっては)。
そして神奈川県も役人としての仕事を40年近く働いた場所だから気に入っている。さらに横浜市にいたっては、浜っ子として生まれ育ったことを誇りに思っている。
ところが市内の区に住むということになると、少し地域意識が異なる。これは血縁とか地縁、社縁といった関係の深さの違いに原因があるようだ。生まれ育った保土ヶ谷区はそうした縁が深い場所だから、いわば故郷のようなものだ。一方現住地の神奈川区は移り住んだ場所で、上に記した類型の「縁」とは無縁な地域だ。
とはいっても、いま住んでる場所の成り立ちぐらいは知っておこうと、近くの図書館で神奈川区の成り立ちについて調べてみた。
それによると、神奈川区は「神奈川の東海道」でも紹介したように、横浜市に入って最初の宿場があった場所である。それ故歴史は古く神奈川区誌によれば、横浜市に区制が施行されたのは昭和2年10月1日でそれほど昔の話ではない。最初に生まれた区は、神奈川、鶴見、中、保土ヶ谷、磯子の5区だった。神奈川区はどういう状況だったか見ると、面積は5区の中で一番広かったが、海辺を除き大半が田畑だという記述がある。農業中心の生活域であるから、村的要素も強かったと類推できる。
この地が大きく変わったのは、先の大戦により工業地帯はほとんど消えてしまった。その他も空襲で多くが消失した。戦後復興したがなお多くの米軍接収地が残ってしまった。それが返還されたのはバブル期を過ぎてからだと思われる。未だにノースピアは接収されたままだ。
その結果立ち直りが大きく遅れた。戦争により地域の風習やしきたりは消えた。交通至便の私の住む地域などは、戦後開かれた新興住宅地といってもいいだろう。こうしてそこの住民は、お互いに干渉し合わないという暗黙の了解があって、生活しているためか、地域に対する愛着のようなものは希薄だ。こうした場所で古い文化やしきたりの継承が見られないのは、当然のことなのかもしれない。
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