日常細事


kiji

2017.7.29 痛快の果てにあるもの
 write(しるす)の「禅に学ぶ」では相対することば「老若」「苦楽」「生死」がよく出てくる。二つを比べながら論が展開する技法が取られている。
 この痛快という言葉も「痛(いたい)」と「快(こころよい)」と反対語の組み合わせだが、辞書では「たいそう愉快なこと。晴れ晴れとした気持ちになること」と説明されている。これをみると痛いという意味が強調の言葉になっていて、肉体的痛みではなく、はなはだしいという意味で使われている。非常にポジティブな解釈である。
 私を引き合いにして、この「痛」と「快」の反対語が、どのようにつながるかを観察してみることにする。
 現時点で私は体調がよくない状況にあると感じている。表に出ている病状だけでも脊椎管狭窄症が進行し、歩くのに苦労している。とくに立ったり座ったりの時に我慢できない痛みが走る。その痛みは近くのものを取ろうと動いても、強い痛みに阻まれる有様だ。帯状疱疹後神経痛になって、今では体全体に痛みが広まり、食欲不振も手伝って、絶不調である。お蔭で1か月で5キロ体重が減り、ズボンの胴回りがゆるゆるになる始末だ。これが「痛」にあたる症状である。
 これら症状が現代医学の力を借りて、徐々に収まっていけば、快方に向かうという言葉を使えるようになる。そこに「快」という言葉が出てきて、痛と快のつながりを見ることができる。
 禅では「二律背反」するものは、実は一体であると説いている。自分の病に関しても痛みが激しくても、いずれ収まり、痛みが去れば体は快調になるのだから、「痛」と「快」は常に循環しており、その一体化の中で日々の生活が続くのである。高齢者の多くがこうした状況に置かれている。この関係はいずれ「生死」の関係に及ぶことになる。
 その時それも人の宿命とさらりと受け止めることが「悟り」または「覚悟」に進展するのだが、私はまだその域には達していない。今はこうして自分の道を確り歩んでいるが、その道はいつか途絶えるのは確実だとは思っている。
 高齢者は周りを見渡せば、「病」を得た者は総じて弱気の虫に取り付かれる。
 このように7月20日のコラム「宿命」より表現がネガティブな方に向いているようだ。痛-快の循環が「快」多しという状況に変わるよう、もう一頑張りすることにしよう。


 

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