2017.7.6 禅問答(2)
禅問答というのは、特別の宗派には見られない特色の一つと言ってもいいだろう。禅にはお経も文字さえ不用(不立文字という)であるとされている。
そういう所から悟りを得た師と修行僧等の間での問答が学ぶのに欠かせない。これは最初に記した通りだが、こうした形はギリシャ哲学やキリスト教、仏教でも対話形式による伝承が行われており、これらは知的かつ論理的内容を持っている。
これに対し禅問答は論理的でも説明的でも解釈的でもない。言わば「場当たり」的ものである。一問一答で終わり知的でなく発展性もない。
鈴木大拙氏はこの禅問答について「禅問答は剣客の立ち合いになぞらえられる。一方の大刀が動くかと思うと、相手は倒れている。巌流島の武蔵と小次郎の対決のようなものである。両刃鉾崎(りょうじんほこさき)を交えて避くることをもちいずともいう」と表現している。
禅問答の一例を一休噺の「屏風(びょうぶ)の虎退治」から引いてみる(石井清純『禅問答入門』)。
それは、将軍足利義持に「屏風の虎が夜な夜な出歩いて悪さをする。退治してくれないか」と請われた一休が「分かりました。私は前で待ち構えていますから、将軍様、虎を追い出してください。出てきたところを退治しましょう」と言って義持の無理難題を退けたという噺である。
この逸話は、達磨とその弟子慧可(えか)の問答で明らかにした「心の不安」というものは「じつは確固たる実体のないものでありそれに対する恐れや拘りさえ捨て去れば、自然に解消されるものであることを示した」という。こうしたやり取りが禅問答の主題となっている。
多くの禅問答の弟子に対する師の答えは(鈴木)「なんともわからぬ一種のすっぽかしのような、問者を愚弄したようにも感じられる。もし、問者に師に対する絶対的信頼がないと、相手が一生懸命な態度にあるにも関わらず、まるで答者は木で鼻を括るような風に見える。場合によっては一喝を浴びせられたリ、一棒をくらわされたりすると問者は憤然とすることだろう。ところが答者は問者を超越した次元から答えを発する。すなわち、禅の答は、いつも問者と違った立場から出るものと考えておかねばならない]
最後の一例はその最たるものである。
投子和尚、因み(ちなみ)に僧問う「如何なるか是れ道」。和尚曰く「道」。「如何なるか是れ仏」。和尚曰く「仏」。
答えは問いを発する者の中にあり、それに目覚めるというところにあるのだろう。
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