2018.1.10 悔いる事の多し
前回とのつながりで、今回は悔いる事の多い毎日の生活を振り返ってみる。
思い通りの「絵に描いた餅」のような生活などはないことは承知の上で、それでも悔いが残ることを繰り返していることは確かである。今年受け取った年賀状は過去の思い出に自分を引き戻す、毎年恒例となる反省会の味がする。
楽しみもあったが、根が自虐的なのか、あの時こうしとけば自分の人生少しは変わってたろうと言った、歌の文句にもなりそうな恨み節がゾロゾロ出てくる。もしとか、だったらという仮定の話がしっかり出来ていない結果だが、ほんのちょっとした事でも「先」は見えないものだ。これは自虐的な私ならずも多くの人も同様だと思う。当たらない宝くじを懲りもせず買い、競馬やパチンコに大金をはたくといったことも、先が見えたら手を出さないはずである。もっともことギャンブルに関しては「後悔」したので止めるという話は聞かないが。
日常的に後悔の念にかられるのは、ごく些細なことが多い。ひとこと言葉が少なかったり、多かったりで局面が大き変わるもので、この類のものを探したら誰でも一つや二つは思い当たることだろう。これらの悔いに関しては学習して「反省」することはできる。
私が悔いること多しという性格は「感が鈍い」という面に負うところ大と考える。
前にも取り上げたが、私は大の方向音痴である。地下鉄の駅を出ると一瞬自分の位置関係を見失うのは相変わらずである。この第六感とも言える感覚の欠如が、どうやら「悔い多き」生活の要因になっているようだ。「先見の明がない」と嘆く以前の話として、我が悔い多き人生は、天性のものにも預かってこれから続くのだろうか。
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