2018.2.14 恥をかくということ
人は誰でも恥をかいた覚えはあるだろう。私も結婚式のスピーチを頼まれて、上ってしまいしどろもどろになり、頭の中が真っ白になって、何を言っているのかわからなくなってしまったことがある。以来人前でのスピーチは苦手になってしまい、普通に話せるようになったのは物書きを始めて、話を短くまとめることができるようになってからである。
相手の人柄や仕事のことを考えて、それを短文にまとめるような気持ちになれば、即席で5分ぐらいの話はできるもので、今は気軽に話せ人前でも戸惑うことはない。
要は自信があるか、ないかに尽きる。自信がないと不安になる。不安になれば本来の自分を見失い舞い上がってしまうのだ。聴く人見る人の立場で考えて、それを短文にまとめるような気持ちになれば、簡単なスピーチに戸惑うことはない。
恥をかくということは教訓を与えてくれるものだ。例えば、私は中学生の頃地理の発表で「屋久島」を「やきゅうじま」とよんで嘲笑を買ったことがある。以来人前で恥をかいた読み方は間違っても読み違えないように記憶に強く刻まれることになる。恥をかくということは、それをモチベーションとして一歩前進することにつながる。それがトラウマになると逆に人前で話が出来なくなる。
年を取って記憶力が落ちることによって、知らずに恥をかいていることだってある。本人が気が付かないだけである。
こういうことの繰り返しが、人を「恥知らず」にしてしまう。恥知らずになればもう恥をかくことはないから、能天気に毎日を過ごすことができる。年寄りの処世術とでもいうものだろうか。
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