日常細事2018


kiji



2018.5.10 本当に当たり前のことなのか
 毎日三食黙っていても供されることは当たり前のことのように見えるが、このひとつをとっても、よく考えるとその過程は結構大変なことなんだということが分かる。
 自分では何もしないから、上げ膳据え膳(自分は何もせず、すべて人にやってもらうことのたとえ)の典型例と言うご気楽な生活を過ごしている。何もしないから、実践がないから家事は何もできないということになる。腰痛を患ってからは、重いものを運ぶのも女房の仕事になってしまった。人がこんな話を聞いたら「結構な身分だね」と言うに違いない。
 他の家庭の旦那衆は結構色々家事をしているという話を聞く。どうやら定年後にカミさんから躾(しつけ)られたというのが実態のようだが、何れにしても、何らかの役割を果たしていることは確かである。
 だから世間様に対しては正直言って肩身が狭い。「お前カミさんに三行半突き付けられたらどうするんだよ。生きていけないよ。そんなことじゃ」と同級生等はずけずけと厳しいことをいう。返す言葉もなく「そうなんだよ」と小さな声で返すしかない。それが「肩身が狭い」ということである。
 一事が万事このように煮え切らない私で、自分でも反省しているのだが、裏返してみれば、完全に支配されていることになる。よく言われるように「女房に頭が上らない」を地で行っている。こうした現状はタイトルにあるように「本当に当たり前のことなのか」と自分自身に問いかけてみると、この歳になってこうした「当たり前」にはいささか不安を覚える。
 昔は「亭主元気で留守が良い」の口で、毎日仕事ではなく、麻雀の付き合いで夜遅く帰ってきたものだ。それが定年後も、五体が自由に動く間はアルバイトで働いたり、このホームページの取材で家を空けることが多かった。ここ2年ほどは以前から書いているように、体調が今一で毎日家に籠っていることの方が多い。
 それでここまで書いてきたように「男の居場所」がグラついてきている訳である。「サー」どうしたものやら、「この当たり前」がいつまで続くのやら・・・。



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