日常細事2018


kiji

2018.12.23 平成を生きて第Ⅳ章
 前回の話の続きになるが、フランスのミニテルが国家的事業であったのに比べ、私が属したプロジェクトは対象が一自治体に限定されたところに、実は大きな格差があった。モデルのコンセプトに日本人の国民性に上手く合わせて興味をそそる何かが欠けていたのではないかと後で思い知ることになる。ただその時は私個人としては未来を切り開くという夢みたいな感じで仕事に没頭していた。
 男(当時の男社会)にとって、真に仕事に情熱を捧げられるということは、これに越した自己満足は無い。創意工夫をこらすということは日本人に流れる遺伝子のようなもので、子どもに玩具(おもちゃ)を与えるようなことと似ており、その一時は楽しく、夢中にさせる動機付けになるものだ。
 少しその夢の中身に触れてみると、ミニテルは国民に端末を配布し電話回線の利用を促し、国民の情報化に先んじたという実績がある。私たちがプロジェクトの中で思い描いたのは、当時衝撃のデビューを飾っていた東芝の初代ダイナブックのような小型のノートパソコンを端末として、そこに画像付きパソコン通信(ビデオテックス)を行うという構想であった。
 それに加え実際プロバイダーとして通信回線、サーバーや維持管理体制はかなりの規模で万全であった。初期投資として金もかけていた。
 先に示したように、科学技術の進歩は休むことなく前進するもので、未来が見えそうでの見えにくいという一面がある。これは教訓にも似た後悔であるが、その見えない未来を見据えて先んじて起業しなければ結末は見えているということである。競馬の馬券ように結果が読めないもので、一か八かの賭けにでるというリスクを負うことに対する覚悟に欠けていたのかもしれない。
 私の後悔とは足元だけを見つめ、あたかも「木を見て森を見ず」の喩にあるような結果を見通せなかったったことである。
 これから述べるように景気が良ければ何事も良い方向に進むだろうとバブル期にありがちな見通しの上に立って仕事をしていたのかもしれない。
 すなわち情報化という旗印は国も推奨するモデルであり、支援を受けることができた。そうした御旗のもと「日本初の画像入りパソコン通信」が広く世の中に広まると過信していた。この着眼点自体は今のIT社会がインターネットに大きく依存している点から見て間違ってはいない。ではなぜ結果として事業は成功しなかったのだろうか。
(以下次章に続く)

 



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