2018.12.27 平成を生きて第Ⅴ章
私は多くの教訓を得た平成という不安定な時代を生きた人間として、自分の仕事を回顧してこのコラムを綴っている。「人生七転び八起き」というが、その諺を地で行った経験に基づく話である。また時代という波に翻弄され、多くの企業がその波に呑込まれていったという話である
話の続きとして、その経緯をもう少し明確にすることにしよう。
時代の波に乗って晴れやかに舞台に登場したこの事業(第3セクターの株式会社)、それが大成することなくとん挫した原因を探ることにする。
今にして分かったことは、遠因はその手法にあった。通信技術が向上し、ノートパソコンは必ず普及するという考えのもとに、端末(ミニパソコン)なしでも、そこにモデムと通信アプリをパッケージにして、入会者に無料で渡しても、年会費で採算は取れるという計算をしていた。採算ラインは会員数1万人であった。新しい形の事業展開に必要な人材育成事業も並行して行っていた。
ところが思いのほかパソコンの普及は拡大しておらず、従来のパソコン通信から乗り換える入会者も多くなかった。新しくネットワークの社会に入ろうという新規入会者頼みになってしまったが、彼らはまだワープロで仕事する状況で、パソコンありきの発想に課題があった。端末込みという投資は許されなかったというのが、フランスとの違いであり、この計画が軌道に乗らなかった原因の一つといえるだろう。
IT事業は「一寸先は闇」の世界である。常に脱皮を繰り返し時代に対応しなければ生き残れないし、そこに優れた経営センスと、資金力を維持する能力が必要なことは言うまでもない。私が最も生き甲斐を感じていたこの仕事は、出資者からの出向者で経営陣は構成されていた。出資大手企業からの出向者の殆どは、このポストを左遷と考え、かつてのキャリアから外れたことですっかり仕事に対する意欲を失っていた。呉越同舟の会社にとって、よほど有能でカリスマ的人材が陣頭指揮に当たらない限り、業績を上げることは不可能に近い。
私の属した第三セクターの財団と株式会社は、二つともバブル崩壊やインターネットの登場という大波にもまれ、それに対応しきれず、この事業を支援してくれた国すら撤退する始末で、再建の手立てもないまま、なし崩しに消えていったのである。次章以降は平成時代の後半を記述する。
年次組み換えのため28日から来年1月3日まで休刊といたします。本年中ご愛顧頂きましたことに感謝申し上げます。
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