日常細事2018


kiji


2018.8.21 子どもの遊び(6)
 子どもの遊びもいよいよ大詰め。アドベンチャーワールドの世界に入ることにする・
 丘陵地のちょうど真ん中ごろに放置された畑があって、そこには一面葦の葉が生い茂っていた。子どもたちにとっては百畳敷きの広間が与えられたようなもので、仲間同士で協力して地面を葦の葉をなぎ倒して、はだしで遊べるように敷き詰めたものである。先にも触れたことであるが、子どもたちの共同作業は、言われなくてもそれぞれ見つけて、僅か2~3日で草葺の大広間を完成させてしまったのである。今の子らには想像もできないだろうが、遊び場というのは、人が造るものでなく、自分たちで遊び場を作ってしまうのである。そうして造った遊び場は、子どもだけの天国。そこで寝転んだり、相撲を取ったりして、遊んだ思い出が強く脳裏に焼き付いている。
 そこはまた遊びの前線基地でもあった。葦原の先は雑木林の中腹に当たる入口になっていた。林の中にはブナやケヤキやカシの木が手が入らないままに巨木となっており、そうした樹木に無数に絡まったツル(蔦)が垂れ下がっていた。
 終戦後アメリカの映画を見て、一番面白かったのは「ターザン」である。この林の中はそれを彷彿とさせる絶好な場所であった。 思い出に残るターザンごっこ(遊び)は、 木から垂れ下がるツル にぶら下がり木から木へ飛び移る遊びでスリル満点だった。
 その遊びも林の中に飛び出す足場を造るところから始まり、着地する場所の確保などアドベンチャーと言っても決して無謀ではない安全への配慮も怠らなかった。「アーアーアー」と雄たけび(その実は子どもらしいボーイソプラノだったが)をあげ木から木へとマシラ(猿のこと)のごとく、滑空して着地するスリルは得も言われぬ快感であった。ツタが切れることも無かったし、ケガをしたものもいなかった。こうした遊びは男子の通過儀礼の一つで、度胸試しも兼ねていたのである。
 学校から帰るや否やカバンを放りだして、すっとんで秘密の遊び場に駆け付け、夕方どこかから聞こえる「御飯ですよー」という声が聞こえるまで遊んでいたものである。
 碌な教科書もなく、脱脂粉乳と塩辛いコッペパンの給食といった学校にはそれほどの魅力もなく、野イチゴやアケビを探し出して食べ、野山を駆け廻った少年時代の遊びを総括するなら、今は遠い昭和という激動の戦中戦後を生き延びた子どもたちにとって「遊び」もまた「創意工夫」に満ちていたのである。




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