2019.1.14 平成を生きて第Ⅵ章
昨年から続いているシリーズ「平成を生きて」の後半に入る。
私が現役を退いたのは20世紀末1999年だった。平成で言うと11年丁度日本の社会が失われた10年という真っ只中の時期だった。政界は55年体制( 日本において、与党第1党は自由民主党が占め政権を維持し、野党第1党は日本社会党が占めていた体制。1955年(昭和30年)にこの構図が成立したためこう呼ばれる)が崩壊して新党の結成が活発化している時期にあった。どの時代でもそうだが世紀末というのは節目の時期に当たるので、世界全体が世紀末の不安が叫ばれるようになり、日本もその例外にはならず、経済成長期に日本政府と企業が築いた終身雇用・年功序列・護送船団方式の企業社会が崩壊して、内需縮小とデフレが始まっていた。
これから世界各地で大きな事件が発生している。年表からざっと拾ってみても、9.11の同時多発テロ(2001年<平成13年>)が起きている。2007年までの間世界は混乱の中にあった。
wikipediaには「新世紀となった2001年(平成13年)にイスラム過激派がアメリカ同時多発テロ事件を起こして、自爆テロと対テロ戦争が吹き荒れた時代となった。アメリカ一極体制の下に悪の枢軸(イラク・イラン・北朝鮮など)への強硬外交を推進し、イラク戦争やアフガニスタン紛争など対テロ戦争を主導した。一方、資源価格の高騰により、アラブ首長国連邦などの資源国やブラジル (Brazil)・ロシア (Russia)・インド (India)・中華人民共和国 (China)・南アフリカ共和国 (South Africa) のBRICs諸国が台頭した」
この時日本は「小泉内閣が聖域なき構造改革と称して政治改革や経済構造のアメリカニゼーションを一層強めた。輸出産業の好転によって一時的に経済状況が好転し、いざなみ景気を迎え、戦後最長の好況期を迎えた。富裕層や外需関連業種を除いて景気回復の実感はないともされ、「実感なき経済成長」と言われた。一方、中国の経済発展により、日本の最大貿易相手国がアメリカから中国に変わった。平成期に入り進行していた事象だが、インターネットが急速に普及した。それに加えてコンピュータ2000年問題以降、NHK・産経新聞などを除く多くのマスコミは元号よりも西暦を主に使用することが多くなり、民間では元号を使う機会が減少した」
今回はほとんど記事の転載に終わってしまったが、こうした社会背景の中で、私の第二の人生は始まった。
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