日常細事2018


kiji



2019.3.30 俗人
 禅を理解するために多くの解説書を参考にして、ガイドブックのようなものをこのHPで紹介してきた(Write2018のサイトマップ「エッセイ」要約『現成公案』(道元)まとめ(2018.3.8)。
 ここで道元は悟りについて、次のように語っている「世界は今あるがまま、そのままの存在である。自ら世界をあるがままに認識できたとき、それがすなわち悟りである」としている。そう認識するためにはひたすら坐禅を組めとも言っている。
 禅の基本は坐禅にあるが、残念ながら私は神経痛のためにそれは叶わない。瞑想するには最も楽な姿勢でしてもいいだろうから、寝転ばって心を空っぽにしようと努める。3分もしないうちに色々なシーンがあふれ出て、瞑想には入れない。道元禅においては、すべては「無」すなわち全存在を否定して、悟りの境地に達することができるとされている。全存在を否定するなんて、どだい無理なことである。
 こうしてパソコンに向かって入力していること、イコール考えを表現しているわけだから、無の境地であるわけがない。今も禅の研究は続けているが混迷は深まるばかりだ。
 自分自身もいつか人生の終着駅に辿り着くのは人並みに理解している。ただそこまでの道筋で自分の成すべきことは「何か」ということで禅を研究し始めた。
 何故「禅」なのか同じ大乗仏教に端を発する仏教は数多くあり、「南無阿弥陀仏」と唱える浄土宗・浄土真宗や「南無妙法蓮華経」と唱える日蓮宗のように、その言葉を毎日繰り返し唱えればどんな人でも救済されるという分かり易い道もあるが、これらはどうも今一つ私には合点がいかない。どうもこういう話はややこしく考えるのが私の悪い癖で、だいぶ前にこのややこしい「禅」という道を選んだ。 
 そこで最初に書いたように、寝転ばって瞑想に入るのだが、邪念が入るか、寝込んでしまうかで「悟り」の道は遠くはるかに、その影さえ見ることはできない。
 俗人はどうあがいてみたところで俗人の域を出ることは難しいと実感している。この話またする機会があるかも知れない。


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