2019.6.12 郷愁
イージーリスニングの曲を聴いていると時たま日本の唱歌が混じっていることがある。そういう曲を聞くとふと昔を思い出して、その歌詞が頭をよぎる。『夕焼けこやけで日がくれて』とっても貧しく毎日の食にも事欠いた田舎の疎開先の風景。自然の美しさだけが唯一の慰めで、B29さえ飛んでいなければ夕焼雲は赤く空を染め、烏が森の住処に帰る姿を見せる平和な風景が広がっていたはずだ。
小学校1年生だったあの一時に私の幼い思い出は凝縮され、時々ふっとよみがえる。甘酸っぱい郷愁の味。夕焼け空の下森の中で薪取り(枯れ枝取り)をして母と並んで帰ったあの畦道。今の子どもたちには思いも及ばないないような原始的生活の日々が広がっていた。
郷愁とは必ずしもどれもが経験する感傷ではないかもしれない。毎日毎日一瞬一瞬が色濃くつまった思い出の地は、遠く隔てて想うもの。現実は残酷である。50年後に再び訪れたが、何も変わらず、知人は年老いてその地で暮らしていたが、こみ上げてくる懐かしい味は感じられなかった。
郷愁とは離れているからこそ懐かしく、勝手に自分の中で脚色され美化されたフィクションの世界の色合いを持つような物なのか。「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷(ふるさと)」私にとって生まれ故郷は都会の中で、本当は母の故郷だった。それは母の遺伝子を強く引いた私の心の中の故郷なのかも知れない。今は亡き母の面影が常に付きまとうのも、苦しい生活の中、私を常に守ってくれた母の存在があったればこその郷愁なのかも知れない。その母は102歳の長寿を全うした。
この記事に関するご感想などを下記メールでお寄せください。comfree@papars.net
2013年の記事を閲覧するには日常細事のアイコンをクリックしてください。
©2013 papa's_pocket. All rights reserved.