2019.6.25 気持ちを空っぽにする(3)
今回は「調心」これは精神を集中統一して雑念を払って没入する(三昧)工夫をすることであるが、その最基本が数息観(すそくかん)という仕方である。 これは「息を数える観法」のことで、出入りの息を数えることに全身全霊を集中していく。数え方には幾通りあるが基本的には、吐く息を主にして数える。
どうするかというと、吐く息を「ヒト-」と数え(声に出さず心で)、続いて吸う息を「ツー」と数える。出入りの息で一単位になることになる。数える時、息と数が別々にならぬように、息を数えるというより、むしろ数えるという動作に息が自ずからついてくるように、「ヒト-」と息を吐きながら「臍の下(丹田)で数える」その際、数えるという動作は出る息を腹の底から出すように念ずることである。気持ちとしては「一切が透明明白」という状態にする。そして「ツー」と吸う。次に「フタ-」と吐き「ツー」と吸う。こうして十まで数え、再びはじめの一つにもどって反復する。
これを「心を数に傾けて散らさない」ようにして何度でも繰り返すのである。もし途中で数え違ったり、ふと頭に浮かんだこと(雑念)にまぎれて数えることが上の空になったりした場合は、気がついたその即座にはじめの一つに立ち戻って改めて始めから数え直さなければならない。このようにして、一つから十まで、ただひたすら息を数えることに没入していくのである。息を数えて一つから十に至る、こんな簡単なことに見えるものなのだが実際には最も単純なことであるだけに(人は実は単純ではないから)極度に醒めた澄み切った緊張が要求される。
しかもこの緊張は、ただ坐って息をするだけという緊張ならざる緊張である。静かに細く長く綿々たる出入の息だけに、あたかも深い深い、熟眠のようでありつつ同時に、これまで示してきた仕方で反復して一つから十まで真に数えることができるなら、これは一点の曇りも曖昧さもない明々白々醒めきった緊張である。
数えつつ出入の息にピッタリ一つになりながら、その一つのところが、数えるという心の働きのうちで真っ白になる(空になる)のである。この故に数息は数息観と言われるのである。次回は坐らずして坐禅の境地に至ることができるかについて記す。
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