2019.12.19 中部地方岐阜県(お国柄18)
岐阜県といえば戦国時代にゆかりのある地として知られる。美濃といえば斎藤道三であるが、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。そのあとに登場したのが、斎藤家に代わり美濃を治めた織田信長で、この地を「岐阜」と命名し、さらにはここから天下統一を志したという。そして、戦国時代を終息へと導いた天下分け目の合戦の跡地、「関ケ原古戦場」もある、日本のヘソの部分に当たる土地柄である。
岐阜県は大別して二つの地域からなる。北部は険しい山々が連なる飛騨地方。南部の美濃地域は木曽川・長良川・揖斐川という「木曽三川」が集まる名水の地でもある。
このように北(山の飛騨)と南(川の美濃)とでは大きく異なる土地柄で、県民性にも大きく反映されている。
岐阜県は全国で7番目に広い面積を持つ大きな県だが、中でも白川郷で知られる飛騨地方はその過半を高山市が占めており、その大きさは香川県や大阪府よりはるかに大きい。白川郷の合掌造りの大きな家には、明治の中頃までは40人とも50人ともいわれる大家族が暮らしていた。その最大の理由は山中にあり田畑となるような土地が極端に少なく、成人して家を出ても新しい家庭をつくることができなかったからだという。こうした大家族主義は、家族間の結束を強め、畑作や養蚕、屋根の葺き替えにも家族や地域総出であたらなければならず、そうした環境が「素朴で勤勉だが、閉鎖的」という飛騨人気質をつくりあげたと言われている。観光地となった今では「おっとりした性格で、上品さと精神的余裕を持った性格を持ち合わせている」と評判は高い。
南部の「川の美濃」は大きな河川があるため、灌漑が大きな事業で、洪水を堰き止めるため堤防を築いたが、この堤防に囲まれた地域を「輪中地帯」と呼んでいた。堤防に囲まれた閉鎖的な地域では水と戦うため一致団結してことに当たってきたが、こうした美濃人気質を「輪中根性」と呼び輪の外の人たちへの関心の低さを揶揄された。
そうした伝統が今も引き継がれ、美濃に住む人々は「温厚」で「人当たりもいい」と称される反面「保守的」で「自分本位で自己中心的」そして、「合理的に物事を考える傾向が強く、金銭感覚にはシビアで無駄なことを嫌う傾向」があるとも指摘されている。
岐阜弁は語尾に「や」が付く言葉が多く、そこが関西弁に似てると言われることが多いゆえんでもある。「~じゃん」は「~やん」「~だ」は「~や」など、独特な使い方では「~だよ」を「~やお」と言ったり、「~でしょ」を「~やら」と言うこともある。
続く。
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