2020.5.13 日本人のルーツを探る(5)
今回は山形県人のルーツを求めてタイムスリップすると、令制国の出羽国の南部に行き着く。
出羽の国(現在の山形県と秋田県に跨る)についは、出羽三山に関する面白い記事を山形県のHPで見つけたので紹介する。
「出羽三山は、山形県の中央にそびえる月山(1,984m)・羽黒山(414m)・湯殿山(1,504m)の総称であり、月山を主峰として羽黒山と湯殿山が連なる優美な稜線を誇っている。『西の伊勢参り』、湯殿山を中心とした『東の奥参り』と言われるほど多くの人たちの信仰があった。地域によっては、15歳になった男子はそれをしなければ一人前と認められないほど、出羽三山詣もうでは重要とされていた。
日本列島においては古くから、山や川、木や石、動物などを神そのものとする考えや、山や川が神の住すみ処かであり、神によって生み出されれたものとする考えがあったようだ。また人間は神の宿る山から魂を授かり、この世に生を受けて、死後その山へおもむき神として鎮まるとも考えられていた。高くて形のよい山は、豊かさの源であり、魂の鎮まる地であると同時に、神聖な場所として、麓ふもとの人々から敬われていた。
羽黒修験道では三山の特徴から、羽黒山は現在の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれ変わりを祈る山(未来)と見立てられた」という話がある。
さて、歴史的に出羽の国がどのような変遷を経て安定していったか見ることにしよう。
出羽国は陸奥国同様に守護職は置かれず、探題・管領が守護に代る権限を持っていた。 さらに地頭職として武藤氏(庄内大泉荘)、大江氏(長井荘・寒河江荘)、里見氏(成生荘)などが入部する。
南北朝期、武藤氏らが北朝足利氏側に立つと、南朝北畠氏が出羽に入り羽黒山修験勢力と結び対抗する。 これに対して北朝側は斯波氏を奥羽探題とし、斯波兼頼が出羽探題として山形に入部する。
南朝方の山形最大勢力は寒河江大江氏だった。正平23年(1367)北朝斯波氏と南朝寒河江大江氏が激突し、斯波氏が勝利した。
結果、斯波氏は勢力基盤を固め、最上氏を名乗り、各地に一族を配置して最上・村山郡一帯に勢力を拡大させることになる。その後数多の勢力争いの後、伊達氏が伊達政宗の代となり、会津の蘆名氏を滅ぼし、奥州探題大崎氏を屈服させて伊達氏の領土は最大となった。
明治初年に出羽国が羽前国と羽後国の2か国、陸奥国が5か国に分けられ、 山形県は羽前国と羽後国の飽海郡が含まれた。
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