日常細事2020


kiji

2020.5.16 日本人のルーツを探る(6)
 歴史的経緯から宮城県民のルーツを探ってみる。
 平安時代末期には平泉の奥州藤原氏の支配を受けていたが、源頼朝が奥州征伐により奥州藤原氏を滅ぼすと、頼朝は御家人に守護・地頭として所領を与えた。
 これを契機として宮城県に移住した氏族には、葛西氏・伊沢氏(留守氏)・千葉氏・武石氏(亘理氏)・国分氏・小野寺氏・熊谷氏・長江氏・首藤氏・狩野氏などがあげられる。
 鎌倉幕府が滅ぶと北畠顕家は後醍醐天皇から陸奥守に任じられ義良親王を奉じて多賀城に入るが、やがて北朝に押されて敗退する。
 室町幕府は守護に代わって陸奥国の統括する奥州管領が設置され、吉良氏・畠山氏そして斯波氏が就く。 新たに奥州探題が置かれると、斯波氏族の大崎氏が任命され世襲化していく。
 もともと奥州では有力国人の権限が強い上に、幕府将軍の直臣である京都扶持衆(伊達氏や蘆名氏)が勢力を持ち、 奥州南部には鎌倉府の影響下にある笹川・稲村御所(福島県郡山市)に押さえられ、大崎氏も一有力国人へと零落していった。
 伊達稙宗は陸奥国守護に補任され、戦国大名として頭角を現し、また登米郡・桃生郡に勢力を持つ葛西氏との抗争もあり、大崎氏は次第に衰退し、伊達氏の支配下に置かれるようになる。
 豊臣秀吉に服属した伊達政宗は、奥州仕置により取り潰された葛西氏・大崎氏旧臣を扇動して「葛西大崎一揆」を起こさせる。 この一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、一揆鎮圧後山形県南部・福島県・宮城県南部の領地を没収され宮城県・岩手県南部の領地を与えられることとなる。
 伊達氏は代々「陸奥守」を称し、初代仙台藩祖・伊達政宗以来、東北の雄藩であった。仙台藩は幕末に幕府の命令で北海道の警護を担当した。このとき会津藩や庄内藩などの東北諸藩も北海道の警護を担当した。仙台藩の警衛地と領地は北海道の約3分の1を占めた。
 仙台藩は、慶応4年/明治元年-明治2年(1868年 - 1869年)の戊辰戦争の際に、奥羽越列藩同盟の盟主となった。
 仙台藩は孝明天皇の弟(明治天皇の叔父)輪王寺宮(のちの北白川宮)を擁立し、輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させ、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に就任する予定であったといわれる。しかし奥羽越列藩同盟は薩摩藩と長州藩を主力とする明治新政府軍に敗れ、仙台藩は石高を28万石にまで減らされた。
 明治政府が誕生すると、日本は中央集権体制の下に組み込まれたが、東北地方支配の政治的拠点とされた仙台市を中心に発展が始まった。
 仙台藩を前身とする仙台県は廃藩置県後も存続し旧領である登米県、角田県の編入、宮城県への改称、磐前県(現福島県浜通り)、磐井県(現岩手県南部)との管轄区域の変更を経て、現在の県域が確定した。




 

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