日常細事2020


kiji

2020.5.19 日本人のルーツを探る(7)
 今回は福島県の生い立ちについて探ってみる。
 福島県を含む北関東・東北地方における人の足跡は、後期旧石器時代に始まる。県域における遺跡としては平林遺跡(桑折町)や会津若松湊の笹山原遺跡群がある。この遺跡から旧石器時代人が製作し使用したとみられる石器群が発見されている。
 縄文時代・弥生時代を経て古墳時代に入るが、福島県は大型の古墳が少ない東北地方にあって大安場古墳、会津大塚山古墳、亀ヶ森・鎮守森古墳などの大型の古墳が集積する。
 5世紀にはすでに北関東・東北の一部までがヤマト王権の影響下にあったと思われ、福島県域においても各国に国造が成立した。
 当初大和朝廷の勢力圏は福島県域が北限であり、蝦夷勢力圏との境界に当たる信夫国(福島盆地)などの国には防備の任もあった。
 701年(大宝元年)の大宝律令の施行時には陸奥国となり、評は郡、評司(国造)は郡司になった。拡大した陸奥国から718年(養老2年)に石城国と石背国が分置された。
 転じて幕末から福島県成立までの歴史の歩みを見ると、諸外国の接近によって、幕府の政治が停滞。白河藩主阿部正外は江戸老中として諸外国との折衝にあたり、神戸港を開港したことで攘夷派の公家などの反感を買い老中を罷免され、白河藩は棚倉へと移封され藩主不在となったにも関わらず、東西両軍にとって要衝の地と目された白河は戊辰の一大激戦地となる悲劇を生むこととなった。
 その後、幕府を廃しようと目論む薩長同盟との衝突で、圧倒的な西洋戦法を有する薩長の軍勢に、会津藩士は元より、奥羽越列藩同盟の磐城平藩や中村藩などでも各藩の勢力や民衆は徹底して反撃を繰り返したが、降伏してしまった。
 江戸時代幕末に置かれた藩及び城郭、交代寄合陣屋としては会津藩、支城の猪苗代城、二本松藩、棚倉藩、中村藩、三春藩、磐城平藩、福島藩、泉藩、湯長谷藩、下手渡藩、水戸藩支藩の守山藩、幕末に徳川幕府直轄地となった白河城、仙台藩の支城谷地小屋城などがあり、交代寄合の溝口家の横田陣屋、その他に代官陣屋もあった。
 明治初期版籍奉還後の1869年(明治2年)の太政官令により、陸奥国(南端である現在の福島県域は陸奥国から分離し、西側が岩代国、東側が磐城国となった(第1次)。
 1871年(明治4年)7月(旧暦)の廃藩置県で全国に多数の県が生まれた後、同年11月(旧暦)に現在の福島県域は、岩代国の会津地方が若松県、岩代国と磐城国からなる中通り地方が二本松県、磐城国はほぼそのまま磐前県(いわさきけん)の3つの県として統合された(第2次)。
 1876年(明治9年)8月21日に福島県(第2次)、若松県、磐前県が合併され現在の福島県(第3次)が成立した。




 

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