日常細事2020


kiji

2020.5.23 日本人のルーツを探る(8)
 新潟県のルーツを歴史的背景に目を据えて調べてみた。
 現在の新潟市域における人々の営みの始まりは、約2万年前の旧石器時代に丘陵と山麓を中心に始まった。現在の市域の大部分はまだ海の底であった。
 約6000年前の縄文時代前期には平野部の砂丘に生活範囲を広げていき、弥生時代後期、新津丘陵や角田山麓に高地性集落がつくられる。新津丘陵の古津八幡山遺跡は、日本海側北端付近に位置する大規模な高地性集落であった。
 古墳時代前期にはヤマト王権の勢力下にあり、新津丘陵に古津八幡山古墳、角田山麓に山谷古墳、菖蒲塚古墳等が造られていった。
 古墳時代の後期にヤマト王権は地方の豪族を国造に任命。市域周辺では高志深江国造が任命され、647年(大化3年)には北方の蝦夷支配の拠点として渟足柵(ぬたりのさく)を設置した。
 奈良時代が始まる8世紀前半、国・郡・郷を単位とする地方制度が整った。市域は阿賀野川を境に、北が越後国沼垂郡、南が越後国蒲原郡となった。蒲原津は越後国の国津(公的な港)で、人や物資の集まる交通の要衝であった。
 今の新潟県は令制国の越後国と佐渡国に当たる。古くは高志(越)国の一部だったが、7世紀末越前・越中・越後の三国に分けられた。
 時代は下って、室町幕府を開いた足利尊氏は越後国守護に高師泰、次いで上杉憲顕を就ける。天文17年(1548)長尾景虎(のちの謙信)が家督と継ぎ、越後守護代となる。19歳の時である。景虎は22歳にして越後国統一を成し遂げた。
 武田信玄が病没し、反信長の立場で本願寺一向宗徒を和睦した上杉謙信は、足利義昭からの信長討伐要請もあり、上洛のための北陸平定にかかる。
 謙信率いる上杉軍は天正5年(1577)加賀国の「手取川の合戦」で織田軍と戦い、織田軍を撃破するが翌年春、謙信は急死する。上杉景勝(長尾政景の実子)が、謙信の後継者として上杉家の当主となる。
 1598年(慶長3年)、上杉景勝は豊臣秀吉の命令で会津(福島県)への国替えとなり、家臣とともに越後を去ることとなった。
 その後、新潟島を中心とする西部は長岡藩領、沼垂を中心とする東部は新発田藩領になった。
 新潟湊は長岡藩領に、沼垂湊は新発田藩領となった。その後、信濃川・阿賀野川河口部の地形が変化し、新潟湊は1655年(明暦元年)に信濃川左岸の現在地に移転した。北前船の西回り海運が安定する時期までに移転を終えた新潟湊は、1697年(元禄10年)には、日本海側屈指の湊に発展していた。
 1869年1月(明治元年11月)に新潟港が開港された。これと同じ年に新潟町は新潟県の県庁所在地となり、新潟県会の開設など近代化が進められた。
 1889年(明治22年)に市制・町村制が実施され市域は1市(新潟市)123町村になり、さらに、1901年(明治34年)の大合併で1市67町村になった。





 

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