日常細事2020


kiji

2020.5.28 日本人のルーツを探る(9)
 今回は富山県の歴史的経緯からその成り立ちを見ていく。
 富山県は、北方を日本海(大半は富山湾)他三方を山脈で区切られている。令制国の越中国と領域を同じくする。
 東の新潟県との県境は難所親不知として知られる。長野県との県境には北アルプスが聳える。石川県との県境北部は宝達丘陵、南側は岐阜県などにまたがる両白山地である。南の岐阜県境には飛騨山脈(日本アルプス)や飛騨高地が控える。
 戦国期以前の富山県では建武政権樹立を目指した後醍醐天皇が恒性親王を下向させている。 恒性親王は「越中之宮」と呼ばれ、在地土豪宮崎氏が迎え入れられる。 その恒性親王は暗殺されることになるが、越中国は宮方(南朝)勢力の強い地域となり、宗良親王も一時期滞在している。
 そこに「観応の擾乱」が起こり足利政権が分裂すると南朝方はこれを利用し越中の在地領主と守護桃井直常は足利直冬(直義の養子)方に付き足利政権に反旗を翻す。幕府は守護に斯波氏そして畠山氏を入れ、越中国の平定に取りかかる。
 管領職でもある畠山基国が越中国守護になると、神保氏、遊佐氏、椎名氏を郡代として安定化させている。
 以降、越中国は畠山氏が守護職を継承するが、畠山義就・政長の時に「応仁の乱」が起こる。
 守護畠山氏は在京し、その間越中領国の支配は守護代神保氏や椎名氏が担当していた。 そうした状況下で神保氏は一向一揆勢と結びつき、越中国での権勢を強めようとした。
 「明応の政変」により将軍職を追われた10代将軍足利義稙(よしたね)が神保長誠を頼り越中へ下向する。このことは神保氏が強い勢力基盤を持っていたことを示している。
 永正3年(1506)守護畠山氏の要請を受けた越後守護代長尾氏が越中に出兵する。 ところが一向一揆・神保氏連合軍に敗れ、以後越後長尾氏は神保氏そして一向一揆勢との間で長期にわたって抗争を続けることになる。
 天文年間に入ると、富山城の神保長職と松倉城(魚津市)の椎名康胤が越中の覇権をめぐって争う。 椎名氏は越後上杉謙信を後ろ盾にしたため、神保氏は甲斐武田信玄そして一向一揆と結び対抗し、越中の争乱はさながら上杉・武田の代理戦争という形になっていた。
 武田信玄、上杉謙信が亡くなると、越中国には織田信長が侵攻してきた。
 ところが6月2日信長が「本能寺の変」で自害すると、織田勢主力の柴田軍は撤兵、越中国は佐々成政が統治に当たることとなる。
 反秀吉の行動をとった佐々成政は、天正13年(1585)豊臣秀吉に攻められ降伏、越中国の大半は前田利家・利長父子に与えられた。その後、江戸時代の越中は加賀藩とその支藩である富山藩に統治されていた。廃藩置県では一時的に富山県(旧県)及び新川県が成立するが、石川県に併合されてしまう。
 しかし、石川県議会では富山軽視の姿勢が目立ったことから分県運動が起こり、旧越中国全域が分離独立する形で現在の富山県が成立した。





 

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