日常細事2020


kiji

2020.5.2 日本人のルーツを探る(2)
ルーツを探る旅2回目は青森県に的を絞った。
 青森県内には縄文時代の遺跡が数多く出土し、三内丸山遺跡(青森市)や二ツ森貝塚、是川遺跡(八戸市)などで住居跡や土器および土偶が発見されている。このことから青森県では縄文時代から高度な文明が築かれていたことが想定される。
 弥生時代から古墳時代の日本列島において北九州から関東地方までの諸勢力を配下に治める中央政権たるヤマト政権(大和朝廷)が成立した後も、東北地方中部以北は中央政権の統治領域外にあり、本州北部の住民は蝦夷(毛人、エミシ)の呼称で呼ばれていた。当時の青森県を含む東北地方中北部は、続縄文文化の段階にあった。
 そもそも青森県は8世紀から9世紀に入り律令国家としての政策が構築されるまで政権統治では、先に記したように対象外の地域にされていた。それが13世紀後半には北条氏の領地となり、それが地頭代である津軽安藤氏が青森地方を支配することになった。そして時代が進み室町時代に突入すると青森県には港が作られ、海上交易が盛んに行われるようになっていく。
 更に時代が進み15世紀半ば頃に南部氏が勢力を青森県まで拡大し、1597年に南部信直が盛岡に築城、また1611年には津軽為信が弘前に築城した。そしてその二城を中心として日本海側を津軽氏の弘前藩が、太平洋側を南部氏の盛岡藩が統治することになった。
 この後すぐ青森県という名前が登場する訳ではなく、江戸時代前期の1624(寛永元年)年弘前(ひろさき)藩が現在の青森市に港町の建設を始めたときに名付けたもの。当時、現在の青森市本町附近に青い森があり、港に入る船の目印になっていたと言われている。ちなみに、青い森が見渡す限り広がっていたことから青森という地名が生まれたというのが定説のようだ。
 県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに)北部にあたる。
 祭りは青森ねぶた祭、弘前ねぷたまつり、黒石ねぷた祭り、五所川原立佞武多、八戸三社大祭などが有名である。
 青森県には"戸(へ)"の付く地名が多いが、これは奥州藤原時代に、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて糠部(ぬかのぶ)郡が置かれ、さらにその中を9つの地区に分けたときに、一戸から九戸の地名が付けられた。この場合の"戸"は"部"、つまり、"○○地区"のような意味。"七戸(しちのへ)"なら"第7地区"という意味になる。ほか、"戸へ)"の意味については、「牧場の木戸のあった場所」、とか、「蝦夷(えみし)平定の際に残した守備兵の駐屯地〔柵戸(きへ)〕」など、いろいろな説がある。




 

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