日常細事2020


kiji

2020.5.31 日本人のルーツを探る(10)
 今回は石川県についてその成り立ちを見ていくことにする。
 先ず何故石川県かと調べると「石川県の名称は加賀地方にあった石川郡に由来し、さらに石川郡との命名は本県最大の河川手取川の古名である「石川」に由来する。 1872年(明治5年)、金沢県庁が石川郡美川町(現・白山市)に移転した際、その郡名により石川県と改名された。 翌年、県庁が再び金沢に移転した後も県名はそのままで現在に至っている」という記事を見付けた。
 それでは歴史的にみて石川県はどんな経緯をたどって現在に至ったのか簡単に見ていくことにする。
 南北朝時代、加賀国は足利尊氏に従い活躍した冨樫氏が守護に任じられる。代が変わり守護職をめぐって冨樫氏に内紛が起こる。 寛正5年(1464)冨樫政親の守護就任で、ひとまず深刻な一族対立は解消されましたが、 続く「応仁の乱」の勃発により再び一族が東軍細川方・西軍山名方に分かれて争うことになりる。
 中央の政局に振り回され、冨樫氏は徐々に求心力を失っていく。 そこで冨樫政親は北陸に教線を伸ばす本願寺勢力を味方に引き入れ反抗勢力を破り、加賀半国を掌握することに成功する。 ところが本願寺との同盟関係が破たんすると、冨樫氏は本願寺一揆衆の弾圧に動き出す。 武力を手に入れた一揆衆は勢いを増し、守護権力との対決姿勢を鮮明にした。
長享2年(1488)一揆衆は政親の居城高尾城を20万ともいう大軍で襲い、滅ぼしてしまいます。 以後実権は門徒一揆衆が掌握していた。 本願寺は尾山御坊(金沢御坊)を拠点に、約100年にわたり加賀国を支配、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。
 天正元年(1573)越前国を攻略した織田信長は続けて加賀国へ侵攻し、本願寺勢は織田軍の猛攻に抵抗する術を失い、天正8年(1580)金沢御坊が陥落、天正10年までに一揆勢は掃討された。
 能登国では明徳2年(1391)管領畠山基国が守護職となって、畠山氏が歴任し、守護代として遊佐氏をおいた。
 「応仁の乱」が起こると畠山義統は西軍山名方につき、京の騒乱が一段落すると能登に戻り在国支配に専念する。この間一向一揆勢と戦い能登への拡大を防いでいる。
 七尾城を築城し、領国統治に実績を残した畠山義総が死去し、畠山義続が守護になると、有力被官の遊佐氏や温井氏などが台頭し始めまる。 畠山七人衆(伊丹氏、平氏、長氏、温井氏、三宅氏、遊佐氏、飯川氏)と呼ばれる重臣らは国政を掌握し、守護は傀儡となってしまう。
 ぞの後畠山七人衆のなかで勢力争いが起こる、遊佐続光は上杉謙信に内応、一方長続連は織田信長に接近する。
 天正9年(1580)織田信長によって能登国が制圧されると、前田利家が七尾城に入った。以降加賀100万石といわれる前田家の天下が続くことになり、1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命された。





 

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