2020.5.9 日本人のルーツを探る(4)
今回は岩手県の生い立ち等を調べてみた。
岩手という名の由来は、県のHPによれば「盛岡市三ツ割の東顕寺に注連縄が張られた三つの大石がある。この石は、岩手山が噴火したときに飛んできた石といわれ「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
この頃、羅刹鬼(らせつき)という鬼が里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は「三ツ石さま」に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を三つの大石に縛りつけてしまった。そして三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら許そう」と言ったそうだ。
そこで、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去ったという話」
今も、雨上がりの日など「鬼の手形」らしきものが石の上に見えるという。昔話のような県名の裏話があるのは、さすが民話の里「岩手」らしい。
さて歴史的背景を見ると、古くは縄文時代より豊かな狩猟・漁労生活を実現した地だった。上代の北上川流域は蝦夷の中心地で、日高見国とも呼ばれていたという説が唱えられている(また、日高見国の名が北上川という地名や、「日本国」という国名のもととなったとも)。一方で、胆沢の角塚古墳は最北の前方後円墳であり、ヤマト王権の影響力が及ぶ北の端でもあった。
北東北地域は、律令国家の形成期である7世紀後半にはまだその支配に組み込まれておらず蝦夷は朝廷側からは征伐の対象であった。
奈良時代、東北地方北部を統一政権の配下に入れようと朝廷側は侵攻を始める。エミシ側は蝦夷の軍事指導者アテルイが現れて朝廷軍に抵抗し、一時は朝廷側の軍に手痛い打撃を与えたが、朝廷側に坂上田村麻呂が派遣され、ついに降伏。そして、岩手県も朝廷の支配下となった。
平安時代の初めには政治の拠点として胆沢城(奥州市)、志波城(盛岡市)、徳丹城(矢巾町)が建設されるなど、律令による朝廷の統一的支配が始まった。
しかし、朝廷の力が衰えてきた平安時代後半には、安倍氏、清原氏、藤原氏などの地元の有力豪族が力を増大させ、地方を支配していった。12世紀末、黄金文化を築いた藤原氏の政権も、四代泰衡が源頼朝によって滅ぼされ、岩手の地は再び外部勢力の支配を受けることになる。
以後、戦国時代まで幕府の内紛や南北朝の対立等、中央政治の動向が岩手にも持ち込まれ、天正19年の「九戸政実の乱」が秀吉の天下統一の最後の仕上げの戦いとなり、岩手の地は、戦国時代の終結という節目にも大きな波にさらされ続けた。
明治維新により陸奥国が分割され陸中国が成立する。その後盛岡藩を前身とする盛岡県に、磐井県と青森県の一部が編入されて岩手県が成立した。
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