2020.6.11 日本人のルーツを探る(13)
今回は長野県の成り立ちを調べてみた。
長野県域でも旧石器時代の遺跡がいくつか発掘されている。その中の野尻湖遺跡(立ヶ鼻遺跡)から人類が活躍していたことを示す槍状木器・骨器・剥片石器などの遺物が発見されている。時期は約2万5000年前から3万年前のものである。全国で発見されている斧形石器の約4分の1にあたる239点を出土し、刃の部分を砥石で研磨したものが多く、世界でももっとも古い磨製石器と言われている。
有史以前県内には縄文時代の遺跡が多数分布し、この時代の中心地のひとつであった。茅野市で発掘された土偶は2体が国宝とされている。また小県郡長和町の和田峠は日本における黒曜石の代表的な産地であり、諏訪郡原村の阿久遺跡は最古級の環状集石とされている。
南北朝時代の信濃国は、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられ、 応永7年(1400)「大塔合戦」では守護小笠原氏と村上氏を中心とする反守護勢力の在地豪族との間に争いが続き、信濃国では強力な支配権を持つ戦国大名が成長できず、信濃国守護の小笠原氏も一族内での対立もあり一つの地域勢力に留まった。
戦国時代も後半期になると、甲斐武田氏が侵攻し、武田信玄の代には信濃国の大半を制圧、信濃北部の諸豪を援助する越後上杉謙信との攻防が繰り広げられた。信玄、謙信の死後、織田信長が信濃国を制圧し、その後、豊臣秀吉が天下を取り、徳川家康は関東に移封され信濃は豊臣方の武将の支配下になる。
令制国である信濃国の歴史については「信濃国#歴史」を参照すると、 明治元年8月2日(1868年9月17日) 明治政府の府藩県三治制導入により、信濃国の旗本領・幕府領が伊那県となる(県庁所在地は伊那郡飯島村=現飯島町)。
明治3年9月17日(1870年10月11日) 伊那県のうち北信および東信の旗本領・幕府領が中野県として分立する。 明治4年6月2日(1871年7月19日) 廃藩となった龍岡藩のうち信濃国内の領地を中野県に編入。
明治4年6月22日(1871年8月8日)善光寺領を編入。県庁が中野から長野に移転し、長野県が発足。
長野県歌「信濃の風」浅井 冽(1)
「信濃の国は十州に境連ぬる国にして 聳ゆる山はいや高く流るる川はいや速く 松本伊那佐久善光寺四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに万足らわぬ事ぞなき」
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