日常細事2020


kiji

2020.6.14 日本人のルーツを探る(14)
 今回は岐阜県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 本県においても約3万年前に始まる後期旧石器時代には、濃尾平野北辺部の段丘上や台地(日野遺跡・寺田遺跡・椿洞遺跡)に人々が活動していた遺跡が確認されている。
 4世紀の前期には、美濃西部が大和政権の勢力下に入り、4世紀後期には飛騨地方にまで支配が及んだ。開化朝に三野前国造が不破郡に設置され、次いで成務朝には三野後国造が各務郡に、額田国造が大野郡に、牟義都国造が武儀郡に、斐陀国造が大野郡に設置された。
 律令制以降は上記の国造国が合併され、令制国の美濃国(18郡・131郷)と飛騨国(3郡・13郷)の二国になった(和名類聚抄)。美濃国は、日本のほぼ中心として、東国と畿内を結ぶ重要な軍事拠点であったので、日本の歴史上で重要な合戦が多く起こっている地域である。
 南北朝時代の美濃国では、足利尊氏の蜂起に付き従った土岐氏が美濃国守護となり、美濃国の支配を固めた。 その後、土岐氏は将軍足利義満に警戒されるほど幕府内に力古くは大海人皇子がこの国を拠点に挙兵した壬申の乱(672年)があり、関ケ原町の藤古川付近で激戦が行われた。
 中世に入ると、美濃国は土岐氏が飛騨国は京極氏が守護を務める。戦国時代になると、美濃国は斎藤道三や織田信長の活躍の舞台となる。
 戦国時代後期、飛騨国は姉小路氏を称した三木自綱が支配していたが、佐々成政と組んで豊臣秀吉に対抗し、配下の武将金森長近に滅ぼされた。飛騨国は当初飛騨高山藩があったが、元禄期に山林資源や鉱山資源に目をつけた幕府が藩主の金森氏を上山藩に転封し、その後は幕府領として高山陣屋の飛騨郡代が支配した。
 「岐阜」の名は諸説あり、一説には、織田信長の命名によるとされる。『信長公記』(太田牛一)によると、織田信長が美濃国を攻略した際に、稲葉山の城下の井口を岐阜と改めたと書かれている。
 江戸時代中期の尾張藩の記録の『安土創業録』(名古屋市蓬左文庫蔵書、旧蓬左文庫所蔵・尾張徳川家蔵書)、『濃陽志略』(別名・濃州志略、国立公文書館所蔵)にも信長命名とあり、長瀬寛二『岐阜志略』(1885年)が『安土創業録』の記述を引用して信長が初めて岐阜と命名したとしている。





 

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