日常細事2020


kiji

2020.6.17 日本人のルーツを探る(15)
 今回は静岡県の成り立ちを調べてみた。
 (http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の遠江国と駿河国そして伊豆国に相当する。伊豆国は、天武天皇9年(680)に駿河国の東部2郡を分割して設置されていて。 遠江国と駿河国の境は大井川になる。
 戦国期以前の静岡県とは次のように記されている。
 伊豆国は鎌倉のある相模国と接し、鎌倉時代は頼朝が鎌倉幕府を開府すると三国の所領も恩賞として御家人に安堵された。伊豆は北条氏が守護となったが、その後、頼朝は甲斐源氏の粛清を行い、三国は北条氏の影響下に置かれた。『曽我物語』に拠れば建久4年(1193年)5月15日には富士の巻狩が行われ、5月28日には曽我の敵討が発生する 。
 南北朝時代に入ると、今川氏が守護大名として駿河国府中(駿府)に入った。14世紀後半に入ると今川氏は遠江国の守護職も兼ねて勢力を伸長する。
 駿河国は、東を鎌倉のある相模国と接し、京と鎌倉を結ぶ東海道の最重要な国として扱われていた。室町幕府は、守護職に足利一門の今川氏を任じ、対鎌倉の最前線に位置付けた。
 南北朝期の駿河国は南朝方の勢力も存在したため、今川氏の勢力基盤はまだまだ脆弱だった。しかし、南北朝の合一がなされる頃には、駿河国における今川氏の権力基盤が確立していく。
 そして今川義元の代に最盛期を迎える。しかし、明応2年(1493)伊勢盛時(後の北条早雲)により伊豆国は早雲に支配されることになる。 相模国小田原城を奪った北条早雲は本拠地を小田原へ移し、韮山城を中心に伊豆国の支配が行われた。 その後、戦国大名に成長した後北条氏は、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で滅亡するまで、5代にわたり関東に君臨することになる。
 遠江国は今川氏が滅ぶと、徳川家康が進出し領国化を目指した。 しかし甲斐武田氏が遠江国に触手を伸ばし、戦国最強と呼ばれた武田軍がたちまち遠江国を席巻した。 徳川氏は後退を余儀なくされるが、 武田信玄の死により、徳川家康の遠江国支配が確立することになる。
 1603年、徳川家康が江戸幕府を開くと後継者の徳川秀忠に将軍職を譲り、家康は駿府において大御所政治を敷いた。江戸時代の伊豆国、駿河国、遠江国の3国(以下「豆駿遠三国」と略称)には、幕府直轄領や譜代大名の藩領、旗本領が入り組んでおり、伊豆国には韮山の代官江川太郎左衛門、駿河国には沼津藩の水野出羽守、田中藩の本田紀伊守、小島藩の瀧脇丹後守、遠江国には相良藩の田沼玄蕃頭、横須賀藩の西尾主計頭、浜松藩の井上河内守、掛川藩の太田惣次郎、堀江藩の大澤右京太夫といった具合に領主支配は複雑に変遷している。
 江戸幕府が倒されて明治維新が起こると、諸旗本領が合併されて、静岡藩(70万石)が設置された。そして、1869年には、駿府は静岡に改名された。





 

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