日常細事2020


kiji

2020.6.23 日本人のルーツを探る(17)
 今回は三重県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 古代に遡ってみると、神武東征により度会郡に侵攻した天日別命(あめのひわけのみこと)は、現地の支配者であった伊勢津彦神( いせつひこのかみ)を東国へ追いやり、同朝には天日別命が伊勢国造(鈴鹿郡)に任命された。4世紀には本格的に大和王権の支配下に入り、成務朝には島津国造が志摩郡に設置された他時期不明ながら飯高県造が飯高郡に、壱師県造が一志郡に、佐奈県造が多気郡に、度逢県造が度会郡に、安野県造が安濃郡に、川俣県造が鈴鹿郡に設置された。
 672年、古代最大の内乱である壬申の乱が起こった。この内乱は律令国家形成の主導権を巡る争いであり、三重県域に属する伊勢と伊賀は巻き込まれ、重要な役割を果たした。
 平安時代末期の源平合戦の時代には平清盛などの家系の伊勢平氏の根拠地となった。伊勢国は平氏の勢力拡大のための豊富な土地であった。平家滅亡後は伊勢神宮領・奈良の寺社領・貴族の荘園に細かく分割された。伊勢平氏の伊勢氏・関氏と源平合戦の恩賞で源氏方の武士が北勢や中勢など伊勢国に移住してきた。南北朝時代に南朝から北畠氏が伊勢国氏に任命され、北畠親房は後醍醐天皇の信任も篤く、神宮禰宜らの支援をとりつけ、多気城(津市)を居城に勢力を拡大した。
 南北朝の争乱が収まると、伊勢国は北半分は土岐・仁木氏が守護となり、南半分は北畠氏が守護として領地した。伊勢神宮の禰宜家も大きな勢力を持ち続けた。
 戦国時代になると、伊勢国はほぼ三分されて抗争が続くことになる。南部は変わらず北畠氏が中心だったが、中部は藤原南家工藤氏流の長野氏と桓武平氏とされる関氏が中心となった。志摩国は伊勢神宮の御厨で占められ伊勢の一部とみなされていた。海岸近くまで山が迫り、海上交通が発達したことから土豪は水軍として成長した。 その中から藤原氏流という九鬼氏が登場して北畠氏に仕え、織田・豊臣氏の水軍として活躍していた。
 織田信長は安土桃山時代に北勢四十八家の領地だった北伊勢地域を次男の織田信雄に統治させた。また、信長は願証寺の信者である長島一向一揆との戦いや天正伊賀の乱で信長に反抗する伊賀・伊勢の豪族や一向宗を信じる北勢地域の農民を大量殺戮した。その後、徳川家康の伊賀越えで協力した伊賀忍者を徳川氏が登用して江戸時代に活躍することになる。
 県名は、明治5年から7年に県庁所在地のあった四日市の郡名「三重郡」に由来する。 ... その他、『古事記』に日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地に着いた際、足が三重に曲がるほど疲れたことから名付けたという伝説がある。
 明治5年3月に安濃津県の県庁所在地が津から三重郡四日市に移されたとき、郡の名前を取ってそれまでの「安濃津県」から「三重県」に改称され、以来『三重県』というようになった。




 

この記事に関するご感想などを下記メールでお寄せください。comfree@papars.net
2013年の記事を閲覧するには日常細事のアイコンをクリックしてください。
©2013 papa's_pocket. All rights reserved.