2020.6.26 日本人のルーツを探る(18)
今回は滋賀県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
国造が分立した時代には、滋賀県は淡海国造と安国造(やすこくぞう)の領域であった。都に近いために早い時期から開発が進められ、多くの渡来人が入植した。飛鳥時代には近江大津宮、奈良時代には紫香楽宮(しがらきのみや)や保良宮(ほらのみや)が置かれた。壬申の乱や藤原仲麻呂の乱といった戦乱の舞台となることも度々あった。
令制国の近江国に当たる。古くは「淡海(あはうみ)」と呼ばれていたが京に近いことから「近江」の字があてられた。 ちなみに海とは琵琶湖を指す。近江出身の僧最澄は比叡山に延暦寺を開創した。延暦寺は数々の名僧を輩出し、現代に続く日本の仏教文化を大きく発展させた。
平安中期より佐々木氏が近江に起こった。佐々木氏は源頼朝が関東地方で勃興するとこれに積極的に加わり、近江一国の守護職を得て南北朝期にはばさら大名で有名な佐々木道誉(高氏)が出て京極家の勢威を伸ばした。
戦国時代に入ると、北部に浅井氏が台頭する。後に将軍の信長包囲網に加わって信長に抵抗、小谷城の戦いによって1573年(天正元年)に滅んだ。
近江国を支配圏に入れた信長は、根拠地として近江盆地に安土城を築城する。信長の死後は畿内を地盤とする羽柴秀吉と、越前国北の庄を地盤とする柴田勝家の係争地となり、北部で行われた賤ヶ岳の戦いにおける秀吉の勝利で決着が着けられた。
その他、近江からは蒲生氏郷・藤堂高虎・大谷吉継など数々の名武将を輩出した。戦国時代から江戸時代にかけての甲賀郡では甲賀流忍者が活動していた。
近世になると徳川家康は、徳川氏における精鋭軍を率いる井伊氏を関ヶ原に近い彦根に入封させて西国の抑えとし、北部の大部分は彦根藩の領土となった。
文化面において特筆すべきは、江戸初期の人物で近江聖人とも称された儒教学者中江藤樹が活躍し、日本の陽明学を発展させた。松尾芭蕉(義仲寺に眠る)は近江を旧里と呼ぶほど好んで訪れ俳諧を高めたとともに、近江蕉門と呼ばれる数多くの門人を輩出した。
明治維新により幕府領・旗本領に大津県が設置された後、廃藩置県によって各藩は各県に移行し、1871年11月22日、新たな大津県(滋賀郡・蒲生郡以南)と長浜県(高島郡・神崎郡以北)に統合された。翌1872年9月28日に両県が合併し、近江国、並びに現在と領域を同じくする新たな滋賀県が成立した。
県名は「滋賀郡」に由来し古くは「志賀」と表記された例も見られる。地名の由来には「シカ(石処)」の意味で「石の多い所」といったとする説と、「スカ(砂処、州処」の転じたものとする説がある。
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