2020.6.29 日本人のルーツを探る(19)
今回は京都府の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
京都は、桓武天皇が784年の長岡京に続いて794年の平安京遷都した。平安京は中国の風水に適う地(「四神相応の地」)として撰地されたとの伝えがあり、南に開け、他の三方を山に囲まれ、東に鴨川が、西には桂川が蛇行しながら南へと流れている。以来明治維新まで、皇室の御所があった場所となる。
京都の地は令制国の山城国の全域、丹波国の東半分、丹後国の全域に相当する。
山城国は有力公家や社寺の領地が多く、大きな武士団が形成されることはなかったが、 室町時代になると南山城の国人衆が結束し山城国一揆がつくられた。
丹波国は京に近いうえ、山陰道からの入口に位置することから、都の政局に巻き込まれやすく、 とくに丹波国亀岡は足利尊氏(六波羅探題攻め)と明智光秀(本能寺の変)が挙兵した時代変革の舞台として知られてる。
平安時代になると律令制の形骸化にともなって次第に本来の領域にとらわれない、鴨川と大内裏・御所を中心とする都市になり、経済的に発展していった。
鎌倉時代になっても京都の朝廷は政治機能を発揮していたが、東国支配を強めていた鎌倉幕府に1185年守護・地頭の設置を認め、全国支配を強めたため、京都は相対的に経済都市としての性格を強めることになった。鎌倉時代末期に足利尊氏が六波羅探題を滅ぼし、幕府滅亡後には京で後醍醐天皇による建武の新政が行われた。その後新政から離反した尊氏が北朝を立て、南北朝時代となると、京都争奪戦が何度も行われ、いずれも短期間で足利軍に撃退されることになる。
南朝が衰微して室町時代になると京には室町幕府が置かれたために政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれた。
戦国時代の端緒となる応仁の乱で市街、特に北側の大半が焼失し、荒廃。その後もたびたび戦乱に巻き込まれた。
この後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興した。特に、秀吉の都市改造は大規模なもので、聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、御土居の構築、洛中に散在していた寺をあつめた寺町などの建設を行った。
江戸幕府が誕生すると政治の中枢は徐々に伏見から江戸に移ったものの、こうした政都の移動にも関わらず京都は国都であることに変わりはなく、徳川政権は、幕府の京都の拠点として二条城を築き、京都所司代・京都町奉行を設置して直轄下に置いた。
1867年11月9日の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。
天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在することになり、政府も移動された。これ以降から現在まで日本の首都は東京と認識されている。
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