日常細事2020


kiji

2020.6.3 日本人のルーツを探る(11)
 今回は福井県の成り立ちを調べて見た。
 福井県は令制国の越前国と若狭国に相当する。
 当初、越前国は石川県も含んでいたが、養老2年に能登国、弘仁14年に加賀国を分立し、領域が定まる。山中峠・木ノ芽峠・栃ノ木峠を通る稜線を境にして、北側の嶺北(越前地方)と南側の嶺南(若狭地方および敦賀市)より構成される。
 南北朝時代、越前国には新田義貞が入り南朝方が勢力を持っていた。 暦応元年(1338)新田義貞が越前国藤島で戦死し南朝方が撤退すると、北朝方斯波氏が平定した。 その後、畠山氏が一時期守護となったが、斯波義将が守護に任ぜられると、応仁期まで斯波氏が守護を務めることになった。その後「応仁の乱」の一因となった家督争いにより、守護斯波氏は弱体化していくことになる。
 一方、若狭国では貞治5年(1366)一色範光が守護となり、国人一揆を抑えて若狭を平定する。 その後「明徳の乱」で武功をあげると一色氏は四職家として権勢を振るうことになる。勢力拡大を恐れた将軍足利義教は一色氏に代えて武田信栄を守護に任命し、以後武田氏が若狭国を支配することになる。 この武田氏は甲斐武田氏の分流である。
 戦国時代になると越前国では守護代甲斐氏方として活躍した朝倉孝景が台頭してくる。以後文明3年(1471)朝倉氏が正式に越前守護職となり、一乗谷を本拠地として、孝景・氏景・貞景・孝景・義景の5代にわたり越前国を支配することになる。
 天正3年(1575)織田信長によって朝倉氏が滅びると、戦国末期の福井県は、信長の重心柴田勝家が支配することになる。ただし、当時の名称は「北庄」(きたのしょう)である。これは伊勢神宮の神領で、のちに一条家領となった足羽御厨(あすわみくりや)の北の荘園、といったような意味だろう。信長が「本能寺の変」で死ぬと、後継者争いで先頭に立つ羽柴秀吉が柴田勝家を滅ぼし、豊臣政権の支配を受けるようになる。
 若狭国では、永禄年間に朝倉氏が侵攻し、武田氏を駆逐し朝倉氏の支配下に組み込まれた。
 1586年に若狭で、1598年には越前で太閤検地が実施され、結果、若狭が8万5000石、越前が68万石となった。
 越前国は関ヶ原の戦いの後、戦功第一の恩賞として結城秀康に越前一国および下野国結城郡75万石が与えられる(北ノ庄藩)。越前松平家は、将軍家徳川秀忠の兄の家ということから、制外の家(各種特権が許された家)または、御三家に次ぐ家という意味で四家などともよばれる。
 江戸時代初期に、徳川家康の孫に当たる松平忠昌が越後高田から転じてくると、城の位置を改め、その際に「敗北」という意味のある「北」の字を嫌って「福井」と改称した。この由来となったのが天守閣脇にあって名水の湧く「福の井」という井戸だとされ、今でも天守閣跡には「福井の由来」として史蹟となっている。





 

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