2020.6.8 日本人のルーツを探る(12)
今回は山梨県の成り立ちを見ていくことにする。
古代には律令制下において甲斐国が成立する。『日本後紀』延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐって隣接する相模国との間で争論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立。山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日居町に前期国府が存在し八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。
平安時代後期の治承4年(1180年)、以仁王の令旨が諸国の源氏に下されると甲斐源氏の一族も平氏政権に対して挙兵する。甲斐源氏の一族は源頼朝の粛清を受け衰退する。武田氏は中世には必ずしも甲斐守護を歴任していない。鎌倉幕府滅亡後に北条時行ら北条氏の残党が起こした中先代の乱までは北条方に属し、南北朝時代には建武政権から離反した足利尊氏に従った。
室町時代、室町幕府は武田信元、続いて武田信重を甲斐守護に任じ、守護代として跡部氏を派遣した。以後、甲斐では守護武田氏と有力国人や跡部氏との抗争が続く。武田信虎は永正5年(1508年)に信恵方を滅ぼし、国中地方の有力国人や都留郡(郡内地方)の国衆・小山田氏など従属させる。信虎は従来の川田館(甲府市川田町)から甲府の躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)に守護館を移転し、新たに城下町を整備し家臣団を集住させる。信虎の子・武田晴信(信玄)は天文10年(1541年)に信虎を駿河へ追放することで家督を継承する。
信玄は信濃をほぼ統一した後は西上野や今川領国への侵攻を行い、三河北部や遠江東部・北部、美濃恵那郡も出兵して、織田信長や徳川家康と対抗した。信玄死去により家督を継いだ武田勝頼は長篠の戦いに敗れて、天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐で戦国大名としての武田氏は滅亡した。
武田氏滅亡後、甲斐は徳川氏が領した。その後、家康は豊臣秀吉に帰服。甲斐国には浅野長政ら豊臣大名が入った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後には勝利した徳川家康による直轄支配が行われた。甲斐国は関東防衛の要所として重視され江戸時代初期、国中には将軍直系(甲府藩)郡内には譜代大名(谷村藩)が配置された。
江戸後期は東国に特徴的な農村の荒廃から無宿・博徒が増加し、竹居安五郎や黒駒勝蔵など甲州博徒が台頭した。幕末の開国により横浜港が開港されると、甲州屋忠右衛門・若尾逸平ら在方商人が甲州産物を移出して富を築いた。若尾逸平は甲府において製糸業に着手して新興商人として台頭し、明治時代には甲州財閥を形成する。
廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して、12月31日(旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。
県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。
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