2020.7.12 日本人のルーツを探る(23)
今回は和歌山県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国の紀伊国に相当する。古くは木国と呼ばれていた。雨が多い森林地帯であることから命名されたという説がある。名草・海部・那賀・伊都・有田・日高・牟婁(むろ)の7郡で構成される。
平安時代後期に熊野三山(熊野本宮・熊野新宮・熊野那智)への信仰が盛んになると、上皇の熊野御幸が頻繁に行われるになり(後白河院は34回)、これに伴い在地勢力として熊野別当家が成立、熊野街道も次第に整備され「熊野詣」が流行するようになった。熊野信仰は民衆の間にも広まり、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛況になっていった。
この熊野信仰へ伝播の過程で名前の鈴木氏は全国に広がったという説がある。その他、空海の高野山金剛峯寺・真言宗紀三井寺・真言宗根来寺など大寺が建てられ、大きな勢力を持つに至った。
当県には数々の有名な世界遺産や遺跡がある。『熊野古道』はそのひとつ。その歴史は平安時代にまでさかのぼり、皇族から庶民まで幅広い身分の人が熊野古道を行き来していたという。熊野古道は、和歌山県紀伊半島にある熊野三山を目指す道であり、世界遺産に登録されている。道が世界遺産登録されるのは、世界的にも珍しいこと。道中では樹齢800年を超える大樹のほか、江戸時代から存在する石畳を見られることも醍醐味がある。
南北朝の合一後は畠山氏が守護職にあったが、僧兵を持つ寺社勢力の根来衆や地侍(国人)集団の雑賀衆など支配力を強め、強力な戦国大名が登場できなかった。
元亀元年(1570)石山合戦が起こると、雑賀衆は本願寺方に付き、小牧長久手の合戦では反秀吉として戦う。 天正13年(1585)3月秀吉は紀伊国へ侵攻し、雑賀衆と根来衆は掃討され、紀伊国の戦国時代は終焉を迎えた。
江戸時代の初期には浅野氏、のちに御三家の紀州徳川家の紀州藩が置かれる。
元和5年(1619)家康の十男・徳川頼宣が紀伊国に入封すると、同国田辺に所領3万8千石を与えられ、幕末まで存続した。
和歌山は『紀伊国』とも呼ばれていたが、その由来は"木の神様が棲む国"を意味する『木の国』であったと伝えられている。
和歌山には「和歌の浦」という景勝地があり、ここは古くから知られていた景勝地で、すでに万葉集に「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」という山部赤人作の有名な歌が収録されてる。この歌の通り「若の浦」と呼ばれた場所だったが、時代は下って1585年に羽柴秀吉の命を受けた羽柴秀長が城の築城を行った。
その時、古代からの名勝地「和歌浦」から秀吉が「和歌山城」と命名したのが、和歌山の由来となった。
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