日常細事2020


kiji

2020.7.16 日本人のルーツを探る(24)
 今回は鳥取県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の因幡国と伯耆国にあたり、 因幡国の国府は鳥取市国府町中郷付近、伯耆国の国府は倉吉市国府(こう)付近と推定されている。
 戦国期以前の鳥取県は、室町時代の因幡・伯耆国は山名時氏が守護職を補任されて以降代々山名氏一族が守護職を務めた。
 守護山名氏は清和源氏新田氏流で、鎌倉幕府の倒幕、室町幕府の創業に貢献するが、南北朝の内乱や守護大名間の抗争に乗じて勢力を拡大させ、山陰地方随一の勢力を築き上げる。
 将軍権力強化を目指す将軍足利義満は有力守護大名の弱体化を画策します。その標的になったのが山名氏一族だった。 義満は山名氏の内紛を利用し、一族を対立分裂させ、さらに謀反を起こさせ(「明徳の乱」)、11か国の守護領国を誇った山名氏は僅か但馬国(山名時熙)・因幡国(山名氏家)・伯耆国(山名氏之)の3か国に減らされた。
 しかし赤松氏謀反の鎮圧に貢献すると(「嘉吉の乱」)、再び勢力を盛り返す。山名宗全(持豊)は細川勝元とともに幕政の中心に立ったが 両者は次第に対立すようになる。
 「応仁の乱」により戦国乱世の時代が幕をあけると山名氏は一族の内紛と周辺の諸勢力の圧迫により次第に弱体化した。
 一方、伯耆山名氏も反守護の国人領主南條氏らの勢力に苦しんだ
 室町・戦国時代は山名氏の領国であったが、戦国時代末期には毛利氏と織田氏の係争地となり、羽柴秀吉が鳥取城を攻略。配下の宮部継潤が城代を経て正式に鳥取城主となる。
 伯耆国においては羽柴・毛利氏の和睦により、東部は羽柴氏傘下となった南条元続が、西部は毛利方・吉川氏が所領を安堵された。
 江戸時代になると、因幡国では、関ヶ原の戦いで敗れた西軍方であった宮部長熈、垣屋恒総、木下重堅が改易され、代わって亀井茲矩、池田長吉、山崎家盛の3大名が統治した。その後、元和4年(1618年)、池田光政が鳥取城に入部し、因伯2国からなる鳥取藩が成立した。
 また、伯耆国汗入郡の大山寺(だいせんじ)は僧・豪円の活躍によって慶長15年(1610年)徳川秀忠より寺領3,000石が認められた。この大山寺領は西伯耆一帯に散在し、18ヵ村が大山寺本坊西楽院の管掌下に置かれた。大山寺は、鳥取藩士とは別の大山侍と呼ばれる武士を登用し、寺領支配に携わらせた。
 鳥取県の語源は『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇に「鳥取造(ととりのみやつこ)」、「鳥取部(ととりべ)」から「鳥取」になったといわれる。
 鳥取県の語源は『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇に「鳥取造(ととりのみやつこ)」「鳥取部(ととりべ)」から「鳥取」になったといわれる。



 

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