2020.7.19 日本人のルーツを探る(25)
今回は島根県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国の出雲国と石見国そして隠岐国に相当する。 出雲国には「国譲り神話」の神話など日本創生に関する伝説が数々伝えられ、ヤマト王権に匹敵する巨大な勢力を持っていたと考えられている。
奈良時代に記された『古事記』・『日本書紀』・『風土記』に、出雲を舞台としたスサノオや大国主の神話が語られるなど、朝廷においてもその存在は大きなものであった。また神話にその創建が語られている出雲大社は代々出雲国造家がその祭祀を司り現在に至っている。
戦国期以前の島根県は、隠岐に配流となっていた後醍醐天皇が脱出し、建武の新政が始まるが、倒幕に参加した足利尊氏が離反し、南北朝の抗争期になると、出雲国では尊氏に付いた京極氏(佐々木氏)、 足利直義方の山名氏が守護職に補任される。「明徳の乱」で山名氏が没落し、幕府侍所頭人の京極高詮が守護職となると、以降は代々京極氏一族が守護職を務めることになる。
「応仁の乱」が勃発すると、出雲・隠岐国守護京極氏は東軍細川勝元に味方し、将兵を率いて京へ出陣する。 領国支配は守護代尼子清定が行い、反抗する国人領主を鎮圧し次第に勢力を拡大していった。
隠岐国では隠岐氏が尼子氏を後ろ盾に、反抗する在地領主を討ち、隠岐統一を成し遂げる。
天文20年(1551)陶隆房の裏切りにより大内氏が滅亡すると、翌天文21年(1552)尼子晴久は出雲・隠岐など8ヶ国の守護職を補任されます。 ここに尼子氏は最盛期を迎えることになる。
永禄3年(1560)晴久の跡を尼子義久が継ぐと毛利氏は出雲国侵攻を本格化させる(永禄5年 第2次月山富田城の戦い)。 大軍に包囲され兵糧攻めに持ち込まれた月山富田城の尼子義久は永禄9年(1566)11月に降伏、ここに戦国大名尼子氏は滅亡した。
江戸時代には堀尾吉晴が出雲・隠岐24万石で入封し、松江城を築いた。松江藩はその後京極氏を経て、徳川家康嫡男の流れを汲む結城松平氏の松平直政が入国し幕末に至った。
石見には浜田藩と津和野藩が置かれ、浜田藩は古田重治から松井松平氏、本多氏を経て越智松平氏が、津和野藩は坂崎直盛の後に亀井氏がそれぞれ支配した。
隠岐は松江藩領であったが、一時的に石見銀山の代官の支配下に置かれて幕府直轄領とされていた時期もある。
隠岐では幕末に島民らが松江藩の代官を追放して自治を行っていた時期がある(隠岐騒動)。
地名の由来は、県成立時の県庁所在地であった郡名「島根郡(現在の松江市)」に由来する。 島根の語源は「しまね(島嶺)」で島状の嶺となっていることからか、「しま」も「ね」も「高くなった所」の意味と考えられる。
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