日常細事2020


kiji

2020.7.26 日本人のルーツを探る(27)
 今回は広島県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)  律令制における安芸国と備後国に相当する。
 備後国は筑紫・出雲と並ぶ有力な地域勢力であった吉備国の一部でだった。 中央集権を進める大和政権は武力鎮定し、持統天皇3年(689)備前国・備中国・備後国に分割した。
 南北朝時代の安芸国は、足利方に付いた甲斐源氏の嫡流武田信武、続いてその子武田氏信が守護職となる。兄の武田信成は甲斐守護職となっている。武田氏は北朝尊氏方として南朝方や足利直冬方と戦っている。
 周防の大内義弘は九州制圧、「明徳の乱」の鎮圧などで多くの功績をあげ、さらに李氏朝鮮との貿易で経済基盤を確立し大内氏の最盛期を築き上げた。大内氏に脅威を感じた将軍足利義満は「応永の乱」で大内氏を討伐し周防長門国の守護職に削減させ、隣国安芸国守護には山陰の名族山名満氏を任じた。
 「応仁の乱」が勃発すると、守護山名持豊(宗全)は総大将として西軍を率い、分郡守護の武田氏は東軍細川方に属し対立する。 そのため国人衆も西軍と東軍に分かれ、抗争を繰り返した。
 永正12年(1515)以降、出雲尼子氏が安芸国・備後国へ侵攻し大内氏と対立する。 備後国人衆の多くは尼子方に属したが、安芸国人衆は大内方と尼子方に分かれ抗争した。
 この頃、頭角を現した吉田郡山城主毛利元就は石見国境の国人高橋氏、備後の国人宮氏、分郡守護の武田氏を滅ぼし、一方で周辺国人と盟約や姻戚関係を結び、安芸国最大の国人領主に成長する。永禄9年(1566)には尼子氏を滅ぼし中国地方に勢力を拡大、さらに北部九州へ進出し、織田信長・豊臣秀吉と対峙することになる。
 この難局に元亀2年(1571)元就が死去、毛利家は孫の毛利輝元を当主に、叔父の吉川元春・小早川隆景が補佐する毛利両川体制で乗り越えることになる。
 天下人豊臣秀吉に臣従した毛利輝元は五大老となり、豊臣秀頼の補佐を託され、「関ヶ原合戦」では西軍総大将に担がれることになる。
 県名は県庁所在地の広島市に由来する。その広島の由来は、1589年(天正17年)からの毛利輝元による広島城築城の際に、1591年(天正19年)命名されたものでよる。
 また他に、デルタのため「広い島」からきたという説もある。


 

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