2020.7.29 日本人のルーツを探る(28)
今回は山口県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
律令制における長門国と周防国に相当する。
山口県は本州の西の端に位置し、古くから九州と中央とを結ぶ海上交通の要衝だった。 早くから中国大陸や朝鮮半島とも交流があり、進んだ文化を受け入れてきた。そうした地政学的位置づけは、日本の歴史を大きく変える転換点の重要な舞台となった。
また、平安時代、下関市で繰り広げられた源氏と平氏の戦い「壇ノ浦の戦い」は、貴族社会から武家社会への転換点になった。
南北朝時代の周防国は、周防国府の在庁官人の末裔大内氏が守護職となる。大内氏は百済聖明王の後裔多々良氏族だという。
南朝方にあった大内弘世は、正平13年(1358)長門国守護厚東氏を滅ぼし、長門国の奪取に成功し周防長門に一大勢力圏を作り上げる。足利尊氏は防長二国の守護職就任を条件に北朝側に引き入れ、大内弘世は室町幕府に帰服する。この頃、本拠地を山口に移している。 以来、周防国長門国は代々大内氏が守護となる
次の大内義弘の代には、将軍足利義満に近侍して、九州制圧や南北朝合一、山名氏の反乱「明徳の乱」の鎮圧などで多くの功績をあげ、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名に急成長していく。 さらに李氏朝鮮との貿易で経済基盤を確立し大内氏の最盛期を築き上げることになる。
「応仁の乱」が勃発すると、大内政弘は、西軍山名方に属して奮戦し、山名宗全歿後は事実上の西軍総大将に担がれる。 つぎの大内義興には京を追われた前将軍足利義稙を保護して入京、再び将軍に復帰させ、強大な軍事力を背景に管領代として幕府の影響力を持つことになる。
大内氏の全盛期は重臣陶晴賢(隆房)の謀反によって突然終焉を迎える。 その陶晴賢(隆房)は弘治元年(1555)「厳島の合戦」で毛利元就に敗れ、毛利氏が西国戦国の覇者として登場する。
天下人となった豊臣秀吉に臣従した毛利輝元は五大老となり、豊臣秀頼の補佐を託され「関ヶ原合戦」では西軍総大将に担がれることになる。
「関ヶ原の戦い」で敗れた後は萩市へ城を構え幕末までの260年間、藩政の中心地とした。
その後、長州藩には藩校明倫館をはじめ各地に多くの私塾や寺子屋ができた。中でも吉田松陰が主宰する松下村塾は、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文といった多くの人材を輩出し、明治維新の原動力となり、近代国家の成立に重要な役割を果たした。
県名の由来は廃藩置県の際、県庁が置かれた山口町(現・山口市)の町名がそのまま県名に採用された。
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