2020.7.6 日本人のルーツを探る(21)
今回は兵庫県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
本県は「令制国の但馬国・播磨国・淡路国の全域と摂津国の有馬郡・川辺郡・武庫郡・菟原郡・八部郡、丹波国の多紀郡・氷上郡に相当する。畿内・山陰・山陽・南海の四道にまたがり面積は広い。
但馬国は古くは日下部氏一族が広がり、武士団を形成していた。次いで、清和源氏新田氏族の山名氏一族が勢力を拡大させ、山名時氏の代には11ヵ国の守護職を獲得し「六分一所殿」と呼ばれ、強大な権力基盤を築き上げた。この山名氏も山名持豊を西軍大将に東軍細川勝元方と争った「応仁の乱」により、 次第に勢力を減退させ、天正年間秀吉軍によって滅ぼされた。
播磨国では村上源氏とされる赤松氏一族が勢力を拡大していったが、赤松満祐が将軍足利義教を謀殺として、嘉吉元年(1441)追討を受けて惣領家は滅亡してしまう。
丹波国では、守護細川氏の守護代内藤氏が多紀郡を中心に勢力を拡大させるが、細川氏の衰退とともに内藤氏が勢力を失うと、多紀郡八上城の波多野氏が勢力を増し、丹波国諸豪族をまとめる位置についた。摂津国では清和源氏源満仲が川辺郡多田庄を領し、この系統を摂津源氏という。
摂津国池田城主である摂津池田家の家臣「荒木村重」は元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて信長の家臣となる。天正元年(1573年)信長が足利義昭を攻めた時にも信長配下として若江城の戦いで功を挙げた。一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となった(下克上)。天正2年(1574年)11月15日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。天正6年(1578年)11月、「有岡城の戦い」で突然主君「織田信長」に謀反をおこし、そこで「花隈城の戦い」となったが、「織田信長」軍の武将で「池田恒興(信輝)・輝政」父子の活躍により花隈城も落城した。池田親子はその功により、信長より兵庫の地を与えられた。天正9年(1581年)に兵庫城を築いた。
しかし豊臣秀吉の代になると、兵庫城下は「豊臣秀吉」の直轄地となり、「片桐且元」が、代官として入城し、呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されるようになった。
県名の由来に関しては、兵庫ノ津が、かつての都であった奈良や京都と日本国内の東西航路や大陸との交易の拠点として古くから栄えており、その歴史は、大輪田泊と呼ばれた兵庫港に始まる。元和元年(1615年)大坂城落城後は尼崎藩に組み込まれ、兵庫城跡には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれ、尼崎兵庫津一帯を統治した。
明和6年(1769年)の上知令により、兵庫津一帯は天領となり、兵庫城跡の陣屋が勤番所に改築された。現在の神戸市兵庫区にあった兵庫城に役所が置かれたことに「兵庫県」の名称の由来があるとされている。
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