日常細事2020


kiji

2020.7.9 日本人のルーツを探る(22)
 今回は奈良県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の大和国に相当する。紀元3世紀から4世紀頃の古墳時代前期に、畿内の豪族が力を強めて周辺地域に覇を唱えた。その後長い年月と代替わりを経て、他地域との交流・攻防や大陸との交流の末、現在の日本地域の大半を支配する大勢力となった。これがヤマト王権と呼ばれている。ヤマト王権は現在の天皇家の祖であるとされ、宮内庁比定の天皇陵などが集まっている。天皇陵に比定される古墳群が示すように、古くから日本の中心勢力が覇を唱えた地域として知られる。
 ヤマト王権成立以来8世紀末まで、この地域に大和朝廷の累代の天皇の宮があり、都が置かれた。大和時代から飛鳥時代にかけては、橿原市や高市郡に宮が置かれていることが多かった(飛鳥京跡)。特に藤原京は、持統天皇4年(690年)に着工され、持統天皇8年(694年)に完成した条坊制による中国風都城として知られる。その後和銅3年(710年)に平城京遷都が行われた(奈良時代の始まり)。平城京から長岡京への遷都の一因ともなった影響力を持った寺社勢力は、遷都後もそれらはこの地域に残り、その後地域の耕作者を支配下において大きな勢力となった。
 平安時代後期は、清和源氏の源満仲の次男の源頼親(兄・源頼光/摂津源氏。弟・源頼信/河内源氏)の大和源氏の本拠地となった。しかし、奈良時代に建立された藤原氏氏寺の興福寺・東大寺など南都寺院が大きな勢力を持ったため、鎌倉・室町の武家政権は大和に定まった守護を置けなかった。
 16世紀末に戌亥脇党の筒井順慶が織田信長の力を背景に大和を概ね制する。また、一向宗の布教拠点として今井町が環濠城塞都市化して信長軍と闘ったが、武装放棄されたものの検断権を許され商工業を盛んにし自治都市として発展した。
 豊臣秀吉の時代、順慶亡き後筒井氏は伊賀国に転出し、代わって郡山城に大納言豊臣秀長が拠を構え、地域の再編と産業奨励に乗り出し大和は安定した。
 江戸時代は奈良(奈良奉行)・五條(五條代官)・今井(惣年寄)を幕府が直轄支配した。実質はあまりに広域のため十津川村の十津川郷士などをはじめ各地域(郷村)による自治を行った。
 慶応4年/明治元年1月21日(1868年2月14日)、新政府は添上郡奈良に大和鎮台を設置。大和鎮撫総督府を経て、同年5月19日(7月8日)に奈良県(第1次)、7月29日(9月15日)に奈良府となり、大和国一円の幕府領、旗本領、寺社領を管轄した。明治2年7月17日(1869年8月24日)奈良県に改称された。



 

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